第7章
新谷音羽はその場に立ち尽くし、バーの曲が次のナンバーへ切り替わって、ようやく夢から引き戻された。
俯く。肩に掛かったままのスーツジャケットに指先が触れると、男の体温がまだ残っていた。冷ややかな沈香の香りがふっと立ちのぼり、再び全身を包み込む。鮮明すぎて、胸の奥がざわつく。
テーブルの書類袋を手に取り、席を立った。
夜風が頬を撫でる。ジャケットの襟をきゅっと寄せ、タクシーを止めると、書類袋の中にあった権利書の住所を告げた。
グランドタワー白金スカイテラス。A市でも指折りの高級住宅地だ。
車は厳重なゲート前で停まり、新谷音羽がカードキーを提示すると、警備員が確認してからようやく通してくれた。
ほぼ300平のワンフロアマンション。黒白灰で削ぎ落とした極簡の内装は、贅沢なのに生活の匂いがしない。蒼井沢言本人みたいに、近づくなと静かに告げる冷たさがあった。
玄関に揃えられた新品のスリッパに履き替え、音羽はリビングの柔らかなソファへ身体を投げる。ふっと力が抜け、心まで空洞になった気がした。
縁談の相手が蒼井沢言だと知って、入籍して、家を飛び出して、挙げ句にあの場で「自分のもの」だと宣告されて――今日一日だけで情報が詰め込まれすぎて、脳が停止しかけている。
スマホを取り出し、親友の唐澤心美に電話をかけた。
一回鳴っただけで繋がり、向こうからは爆音の音楽と、心美のやたら元気な声が飛んでくる。
「もしもし! 音羽! 薄情者! やっと思い出した? 一緒に踊るって言ったのに、どこ行ったのよ!」
「心美……」音羽の声はどこか宙に浮いていた。「私、えっと……友だちの話なんだけど……」
「待って!」
向こうの騒音が急に遠のく。心美がどこか静かな場所へ移動したらしい。声が一気に警戒モードになる。
「その前置き、危険すぎ。で、その友だち、殺人? 放火? それとも腹が――」
「違う」音羽は小さく苦笑した。「今日……結婚した」
「結婚?」心美の声が跳ね上がる。「正気? 結婚なんて何がいいのよ! 相手は誰!」
音羽は息を吸い、なるべく平坦に言った。
「その子、縁談の相手だと思って市役所に行ったら……相手の叔父様だったの」
十秒。沈黙。
「……は?」
そして次の瞬間、心美が爆発した。
「うわ、マジで!? その友だちって……あんたでしょ、新谷音羽! 嘘つかないで、正直に言いなさい!」
音羽は目を閉じ、喉の奥で小さく答えた。
「……うん」
「つまり、ピンク髪の蒼井翼だと思ってたのに、嫁いだのはその叔父の蒼井沢言? 財界の『冷酷な閻魔』って呼ばれてる、あの蒼井沢言?」
「うん」
「……何その運! いや違う、神運!」心美は興奮して息継ぎも忘れたように喋り出す。「林翔太のクズ、さっさと捨てな! って、もう捨てたか。じゃ、浅田美晴のぶりっ子は? 知ってんの? あの整形顔、歪まない?」
音羽は今夜の出来事を、なるべく短くかいつまんで話した。
心美は電話の向こうで大喜びし、最後は腹の底から笑った。
「最高! 蒼井社長つよ! 林翔太の糞食った顔見たかった! ざまぁ!」
笑いが落ち着くと、心美の声が急に真面目になる。
「でもさ、変だよ音羽。蒼井沢言クラスが、なんで新谷家と縁組するの? 新谷家も悪くないけど、格が違う」
それは音羽も引っかかっていた。
少し迷ってから、声を落とす。秘密を吐き出すみたいに。
「心美、もう一つ……私、彼が……二年前の夜の……」
二年前の、曖昧で荒唐無稽な一夜。沈香の香り。痣のこと。音羽は知っている限りを、全部話した。
「だから」音羽の声が震える。「新谷家が資料を出したって説明、信じられない。絶対、あの男だよね?」
心美は長く黙った。
やがて、重い声で言う。
「音羽。もし蒼井沢言が二年前の男なら、これは商売の縁談じゃない」
一語一語が沈む。
「二年かけて、あんたを囲い込んだってこと。……怖いくらい読めない」
音羽の胸が、すうっと冷えていった。
「で、どうする? 逃げる?」心美が問う。
逃げる。
どこへ。蒼井沢言の手がどこまで届くのか、想像すらできない。
それにもう、法的には妻だ。
「わからない」音羽は天井を見上げた。「明日の午前10時、家で待てって」
「待てって何を……初夜?」
心美が平然と言う。
「やめて!」音羽の頬が一気に熱くなる。
「はいはい、ごめん」心美は咳払いした。「じゃ、作戦。敵を知り己を知れば、百戦危うからず。逃げられないなら迎え撃つ。今すぐネットで蒼井沢言の情報を洗い出して! 好み、地雷、過去の女関係……全部! 私も調べる!」
通話を切り、音羽はタブレットを開く。検索窓に「蒼井沢言」と打ち込んだ。
出てくるのは似たような経済記事とインタビューばかり。
写真の彼はいつもスーツ姿で、冷たい表情。鋭い眼差しは、画面越しでも刺さる。
経歴は完璧だった。若くして蒼井グループを掌握し、数年で企業価値を跳ね上げた――そんな見出しが並ぶ。
私生活は、白紙。
スキャンダルも、趣味嗜好も、恋愛の噂もない。綺麗すぎて、逆に不気味なほどだ。
「調べた?」
心美から再び電話が入る。
「こっちも同じ。仕事狂いってこと以外、情報なさすぎ。コーヒー派か紅茶派かすら分からないとか、もはや人間味ゼロ!」
「私も同じ」音羽は息を吐いた。
「落ち込むな」心美が言う。「明日来たら怯むなよ。交渉だと思え。毅然とした態度で。今のあんたは蒼井夫人――法律上の奥さん。切り札はある」
「切り札って何」
「自分自身に決まってんじゃん、バカ!」心美は呆れたように言う。「二年かけて手に入れたなら、目的がある。目的を果たすまでは乱暴しない。そこを突け。何を望んでるのか吐かせろ」
二人はそのまま長く話し込み、空が白みはじめてようやく電話を切った。
ほとんど眠れないまま、音羽の頭の中には心美の言葉と、蒼井沢言の底の見えない瞳が何度も浮かんでは消える。
午前9時。
広いウォークインクローゼットで、音羽はシャンパンゴールドのシルクのスリップドレスを選んだ。装飾のないシンプルさが、身体のラインと艶を際立たせる。
淡いメイクを整え、髪をゆるくまとめる。白い首筋が露わになり、そこには蒼井沢言がつけたムーンフラワーのネックレスが静かに光っていた。
媚びたくない。怯えても見せたくない。
これはデートじゃない。交渉だ。
9時58分。音羽はリビングのソファに腰を下ろし、背筋を伸ばす。戦う前の白鳥みたいに。
10時ちょうど、インターホンが鳴った。
