第1章

松野里奈視点

ウェディングケーキにバタークリームの薔薇を絞っていたら、携帯が震えた。画面には涼真の名前。なのに、聞こえてきたのは女の人の声だった。

「松野さんですか? こちらは記念病院です。ご主人が自動車事故に遭われました」

絞り袋が手から滑り落ちた。落とした感覚すらなかった。心臓が止まる。次の瞬間、このまま店の床に倒れてしまうんじゃないかと思うほど、激しく鼓動を打ち始めた。

「彼は――」言葉が出てこない。

「容体は安定しています。ですが、すぐに来てください」

鍵をひっつかんで、私は駆け出した。

運転した記憶はない。駐車した記憶もない。ただ、小麦粉だらけのエプロンをつけたまま、誰にどう思われようと構わずに自動ドアを駆け抜けたことだけを覚えている。看護師さんが彼の病室を指差してくれて、私はさらに走った。

廊下は永遠に続くかのように長かった。病室に着いてもノックなんてしなかった。ただドアを押し開ける。

涼真はベッドの上で体を起こしていた。頭に包帯が巻かれている。でも、生きてる。

「涼真!」駆け寄って、彼に手を伸ばす。

彼は身を引いた。

意地悪なわけでも、乱暴なわけでもない。でも……慎重な感じ。まるで、自分のスペースに入り込んできた見ず知らずの人間に対するような。彼の視線が私と絡む。そこには何もなかった。ただ、丁寧な困惑だけが浮かんでいた。

胃がきゅっと縮んだ。

「すみません」彼の声はどこかおかしく聞こえた。「あなたは……どなたですか?」

足が震えて、ベッドの柵を掴んだ。「え?」

涼真は私の向こう、隅にいる誰かに視線を向けた。振り返ると、直樹が壁に寄りかかって立っていた。彼がいることにさえ気づかなかった。涼真は私に視線を戻す。「あなたのことを思い出せないんです。医者からは、記憶の一部を失ったと。本当に申し訳ありません」

私のこと、覚えてないの?

最初は言葉にできなかった。喉が詰まって。やっと出てきた言葉は、かろうじて聞き取れるほどの囁きだった。「私のこと……覚えて、ないの?」

彼の顔が苦痛に歪んだ。「はい。本当にすみません。あなたは明らかに私のことを知っているし、私があなたを傷つけていることもわかります。でも、ただ……記憶が消えてしまったんです。記憶が戻るかどうかは、医者にも分からないそうです。」

私は直樹を見つめた。彼は頷いた。現実なんだ。

私の夫が、私を見ず知らずの他人のように見ている。

「どれくらい?」声がひび割れた。「どれくらい覚えてるの?」

「三年くらい前までです。それ以降のことは……」彼はどうしようもなさそうに身振りをした。「何も」

三年間。それって、ちょうど私たちが会って恋に落ちた期間じゃない。なんでそんな都合よく、この数年だけ忘れちゃったの?

涼真の、まったく私を認識していない、申し訳なさそうな目。あの部屋では息ができなかった。外に出なくちゃ。

「休んだ方がいいわね」ドアに向かって後ずさる。視界がぼやけてきた。「無事でよかった」

「待って――」涼真が呼び止める声がした。

でも、私はもう行ってしまった。

外の壁に背中を押しつけ、口を手で覆って、嗚咽をこらえる。生きてる。それが大事なこと。彼は生きてる。

でも、彼は私のことを知らない。

私たちの初デートも、結婚式も、何も覚えていない。

「あの人……」半開きのドアから涼真の声が聞こえてきた。「私、たぶん一目惚れした」

私は凍りついた。

「彼女を見た瞬間、心臓が馬鹿みたいに跳ねたんだ」彼は混乱しているようだった。ほとんど怯えているみたいに。「これって普通か? まったく知らない人にこんな気持ちになるなんて。直樹、私は一体どうしちまったんだ?」

ドアの隙間から中を覗く。涼真は、まるで裏切られたかのように自分の両手を見つめていた。直樹がベッドのそばに立っていて、笑みをこらえているのが見えた。

「本気なんだ」涼真が言った。「彼女が入ってきた瞬間、息ができなかった。それに彼女の目……」彼は言葉を切り、首を振った。「馬鹿げてる。名前さえ知らないのに」

直樹がようやく口を開いた。「少し休んだらどうだ」

「休む? どうやって休めって言うんだ?」涼真は笑ったが、その声はパニックに陥っているようだった。「病院の部屋で、見ず知らずの人に恋をしたんだぞ。普通じゃない。それは――」彼は言葉を止めた。「待てよ。直樹、彼女のこと知ってるのか? 彼女が入ってきたとき、驚いてなかったもんな」

直樹はただ彼の肩を叩くだけで、答えなかった。

私は壁に沿ってずるずると座り込み、冷たい床に腰を下ろした。涙が頬を伝っているのに、馬鹿みたいに笑っていた。

彼は私に恋をした。もう一度。私が誰なのかも知らずに。

携帯が震えた。直樹からのメッセージだ。「少し時間をやれ。それから戻ってこい。話がある」

立ち上がって廊下の先のお手洗いを見つけ、冷たい水で顔を洗った。鏡の中の自分を見つめる。

三年前、私は彼の役員秘書だった。惹かれ合ったのは一瞬で、そしてそれはまったくもって不適切だった。彼は私の上司で、私にはその仕事が必要だったから。でも涼真は、それでも私を追いかけてきた。「残業」は明らかにデートだったし、「会食」はロマンチックなレストランで行われた。

三ヶ月後、彼は私にプロポーズした。大げさでロマンチックな瞬間なんてなかった。ある夜、彼がデスクから顔を上げて言っただけ。「結婚してくれ、里奈。時間を無駄にしたくない」

それは早くて、衝動的で、いかにも涼真らしかった。恋を、まとめなければならないビジネス取引のように扱っていた。私は彼を愛していたから「はい」と答えた。でも時々、もし彼がちゃんと私を口説いてくれたらどんな感じだっただろうって思った。花束とか。ラブレターとか。ロマンスとか。

そして今、彼はその何もかもを覚えていない。でも、私を見て、一瞬で恋に落ちた。

ある考えが頭に浮かび始めた。ちょっと突飛な考えで、おかしいと思われるかもしれないけど……

もし、すぐに本当のことを教えなかったら?

涼真が私を口説こうとする。急かされたプロポーズもない。結婚に飛び級することもない。ただ……本当の求愛。

携帯が震える。直樹からだ。「その顔、わかるぜ。里奈さんが何を企んでるにせよ、僕も乗った」

思わず笑いそうになった。

病院を出ると、駐車場はがらんとしていた。街灯の下で車を停め、エンジンを切る。

涼真は自分で言った。私に一目惚れした、と。

私たちの電撃的なロマンスを思う。あっという間の結婚。最初のキスから三ヶ月で結婚式まで。私は涼真を愛している。怖くなるくらい彼を愛している。でも、いつも疑問に思っていた。もし私たちが時間をかけていたら? もし彼が本気で私を追いかけてくれたら? もし私が、効率的に手に入れられたんじゃなくて、ちゃんと追い求められたと感じることができていたら?

携帯の画面が光った。直樹からだ。「彼が里奈さんのことを訊いてる。全部知りたがってる。二人で話すまで、何も言わないでおく。でも忠告しとくけど、彼はものすごく興味津々だ」

返信する。「話がある。すぐに」

返事はすぐに来た。「だろうな。明日の朝は? 病院の近くの喫茶店で」

「うん」

エンジンをかけたけれど、まだ発進しなかった。

「松野涼真」と私は思った。乾いた涙の跡が残る顔で、笑いながら。もし忘れちゃったなら、二度目はどうやって私を追いかけてくれるのか、見せてもらうわ。

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