第2章
松野里奈視点
私は早めに喫茶店に着き、飲まないであろうラテを注文して、誰にも話を聞かれない隅のボックス席を選んだ。
十分後、直樹がにやにやしながら入ってきた。
「君の旦那さん」彼は私の向かいの席に滑り込みながら言った。「昨日の夜、一睡もしてないよ」
私はカップを両手で包み込んだ。「え?」
「ずっと天井を睨んでてさ。大丈夫かって聞くたびに、絶対大丈夫じゃないって声で『大丈夫だ』って言うんだ」直樹は背もたれに寄りかかった。「で、午前三時ごろになって、『訪ねてきたあの女の人』について聞いてきた」
心臓が馬鹿みたいに跳ねた。「なんて答えたの?」
「何も。朝になったら話すって言った」彼は私の顔をじっと見た。「でも里奈さん、彼は執着してる。あんな涼真は見たことない。君の目がどこか見覚えがある、知っているはずなのに誰だか思い出せないって、ずっと言ってた」
息をのむ。「一つ、考えがあるの。突拍子もないんだけど」
「聞こう」
「まだ本当のことを教えないっていうのはどうかな? 私たちが契約結婚してるって思わせておくの。お互いに愛情はなくて、ただの……ビジネスだって」
直樹の眉が跳ね上がった。それから、彼は笑い出した。口元を手で覆って、必死に声を殺そうとしている。
「君は彼に追いかけさせたいんだ」彼は言った。「なんてこった。やり直したいんだな」
「それって、そんなに悪いこと?」顔が熱くなるのを感じた。「あなたのお兄さんは、私たちが出会って三ヶ月でプロポーズしたのよ。三ヶ月よ、直樹。初キスから九十日で『結婚しよう』だなんて。彼のことは愛してる。でも時々思うの。もし彼がちゃんと私を口説いてくれてたら、どんな感じだったんだろうって。ほら、普通の人みたいに」
「『結婚してくれ、時間を無駄にしたくない』じゃなくて、か」直樹はまだにやにやしている。「ああ、いかにも涼真らしいや」
「その通り」私は身を乗り出した。「だからもし、彼がすべてを忘れて、まるで初めて恋に落ちた見知らぬ人みたいに私を見ているなら……今回はちゃんと、彼に私を追いかけさせてあげてもいいんじゃない?」
直樹は一瞬黙り込んだ。そして、頷いた。「乗った」
「ほんとに?」
「もちろんだ。兄さんは自分の妻の口説き方を学ぶ必要がある。これは完璧だ」彼は携帯を取り出し、メモを打ち始めた。「よし、詳細を詰めよう。契約結婚――理由は?」
「彼は遺産と会社のイメージのために結婚が必要だった。私はスイーツショップを開くためのお金が必要だった」
「二年契約?」
「うん。もうすぐ契約期間が終わる。私たちは別々に暮らしていて、感情的な繋がりは一切なし」
「あいつ、これ嫌がるだろうな」直樹は楽しそうに言った。「一目惚れした相手が、もうすぐ自分のもとを去る契約妻だったなんて。まるで安っぽい恋愛小説だ」
「まさに安っぽい恋愛小説だわ」と私は思った。それが狙いなんだけど。
「一つだけルール」私は言った。「永遠に引き延ばしたりはしない。ただ、彼が本気で努力するのに十分な時間だけ。ちゃんと私を追いかけてくれるまで」
「取引成立だ」直樹はコーヒーカップを掲げた。「兄さんに、明らかに欠けていた正しい求愛教育を授けるために」
私は彼のカップに自分のカップをこつんと当てた。昨日以来、初めて笑みがこぼれた。
涼真は天井のタイルを見つめていた。まただ。
ドアが開き、直樹が入ってきた。怪我をした兄を見舞いに来た人間にしては、やけに上機嫌な様子だった。
「機嫌がいいな」涼真は言った。
「美味いコーヒーを飲んできたからな」直樹はベッドの隣に椅子を引き寄せた。「それで。昨日の訪問者の話がしたいんだったな」
涼真の心臓が速まった。「あの女の人だ。ああ。彼女は誰なんだ?」
直樹の笑みが消えた。気まずそうな顔をしている。「名前は坂本里奈さん」
「里奈」涼真はその名前を口の中で転がした。「どういう知り合いなんだ?」
「君の、妻だ」
「は?」
「結婚してるんだよ。もうすぐ二年になる」直樹は彼から目をそらしている。悪い兆候だ。
「俺が、結婚してる」涼真はこの事実を咀嚼した。「彼女と。里奈と」胸が締め付けられるような気がした。「じゃあ、なんで彼女が見知らぬ人のように感じないんだ? いや、他人行儀ではあるんだが、でも」彼は言葉を切った。「待て。結婚してるなら、なんで覚えてない? 二年なんてそんなに長くないだろ。それに、俺が彼女を認識できなかったとき、なんであんなに打ちひしがれた顔をしてたんだ? もし俺たちがただの――」
「契約結婚だからだ」
涼真はぴたりと動きを止めた。「なんだって?」
「君は結婚する必要があった。遺産のため、取締役会のため、会社の安定のためだ。彼女は自分のケーキ屋を開くための資金が必要だった。君たちは取引をしたんだ」直樹はようやく彼の目を見た。「二年契約。感情は抜きで」
涼真の胸の中で、何かがひび割れる音がした。「俺たちは……愛し合っていないのか」
「契約には含まれていなかった」
「だが俺は」涼真はシーツを握りしめた。「昨日、彼女が入ってきたとき、息ができなかった。心臓が」彼は痛々しく笑った。「頭おかしいだろう?自分の契約妻に、一目惚れしたっていうのか?」
「悪いな、兄さん」
「契約は、あとどれくらいだ?」涼真は尋ねた。
「数週間だ。そしたら、二人とも別々の道を自由に歩める」
涼真は弟を見つめた。「彼女は、行ってしまうのか」
「最初からそういう計画だった」
「彼女は、去りたがっているのか?」
直樹は肩をすくめた。「それは彼女に聞かないと」
涼真は枕に背中を預けた。頭がずきずきと痛む。坂本里奈。自分の、妻。自分が覚えていない相手。一瞬で恋に落ちた相手。自分が彼女の心を射止めようともせずに結婚した、そんな馬鹿な真似をしたせいで、数週間後には去っていく人。
「別々に暮らしてるのか?」彼は尋ねた。
「ああ。ケーキ屋の上の階に自分の部屋を持ってる」
「一緒に……時間を過ごしたりはしないのか?」
「体裁を繕うとき以外はな。会社のイベントとか、そういう類のものだ」
涼真は目を閉じた。「つまり俺は、今まで見た中で一番美しい女性と結婚しておきながら、それを完全に事務的なものにして、今まさに彼女に去られようとしているわけか」
「まあ、そういうことだ」
「俺は馬鹿だ」
「それには反論しない」
涼真は目を開けた。「彼女の番号を教えてくれ」
「兄さん」
「電話しないと。彼女と話さないと。俺は……」彼は言葉を切った。「やってみないとダメなんだ。たとえ契約だとしても。彼女が去るつもりでいたとしても。少なくとも、俺は挑戦しないと」
直樹は携帯を取り出し、スクロールしてから涼真に画面を見せた。「たぶんケーキ屋にいるだろう。これが彼女の連絡先だ」
涼真はそれを記憶した。「ケーキ屋の名前は?」
「『菓々里』。五番街にある」
菓々里。当然か。涼真はすべてをさておき微笑んだ。「この状況を何とかしてみせる」
「何を何とかするって?」
「一度目に俺が間違ったこと全部だ」涼真は弟を見た。「彼女に、ここにいたいと思わせてみせる」
直樹が去った後、涼真は自分の携帯を掴んだ。里奈の連絡先の上で指をさまよわせる。一体、何を言えばいい?
「どうも、君の存在を忘れた契約夫です。夕食でもどう?」
そうではなく、彼は写真のギャラリーをスクロールした。直樹の言う通り、二人が一緒に写っている写真はほとんどなかった。会社のイベントらしきものが数枚。フォーマルなドレスを着た里奈が、彼の隣に立っているが、触れてはいない。ビジネス用の笑顔。他人に向けられる類のものだ。
「俺たちには本当に何もなかったんだな」と彼は思った。ただの契約だけだ。
だが、それは昨日の彼女の眼差しとは一致しない。彼が彼女を認識できなかったときの、あの絶望的な目。あれはビジネス上の義務を果たしている人間の反応じゃない。
涼真はノートパソコンを開いた。グーグルに打ち込む。「破綻しかけた契約結婚を修復する方法」
結果は役に立たなかった。彼はもう一度試す。「妻を惚れさせる方法」
やはり、役に立つものは何もない。ようやく、彼は匿名の人生相談掲示板を見つけ出した。アカウントを作成する。空の投稿ボックスを見つめた。
「契約妻との二年間の契約がもうすぐ終わります。私は記憶を失い、彼女に一目惚れしました。彼女はこの気持ちを知りません。どうすれば彼女に、ここにいたいと思ってもらえますか?」
彼はそれを削除した。あまりに明け透けすぎる。もう一度試す。
「愛してはいけない人を愛してしまいました。どうすれば――」
それも削除した。指が勝手に動く。
「契約結婚がもうすぐ終わる。これを本物にしたい。アドバイス求む」
彼は「投稿」ボタンの上で一分ほど固まり、それからノートパソコンを閉じた。
自分は何をやってるんだ?
涼真はもう一度、里奈の連絡先を見た。彼女のプロフィール写真はどこかの会社のイベントのものらしかった。彼女は美しく、そして完全に手の届かない存在に見えた。
「以前何があったかなんて関係ない」彼は誰もいない部屋に向かって言った。「ただの契約だったなんて関係ない。今は彼女を知りたい。本当の彼女を」
彼は新しいメッセージを開いた。打ち込む。「どうも、涼真です。話せますか?」
削除した。堅苦しすぎる。もう一度。「里奈さん、会いたいです。いつ空いてますか?」
まだ違う。彼はイライラして携帯を置いた。
もし断られたら? もし彼女がこの契約が終わる日を指折り数えて待っていたとしたら? 昨日の彼女が動揺して見えた唯一の理由が、自分の記憶喪失のせいで彼女の離脱戦略が複雑になったからだとしたら?
いや。そうじゃない。彼女の顔を見た。あれは本物の傷心だった。
涼真はもう一度携帯を手に取った。打ち込む。「私たちのことは覚えていない。でも、思い出したい。夕食に誘ってもいいかな?」
考えすぎる前に、彼は送信ボタンを押した。
そして、心臓を激しく鳴らしながら、彼女からの返信を待った。
