第2章
二ノ宮原子は精神病院の門前でタクシーを降りた。
約束どおり運賃を倍で渡し、唇に甘い笑みを貼り付ける。
「ありがとう」
「いえいえ。お達者で」
運転手は原子の背後にそびえる建物をちらりと見て、ぞくりとしたように肩をすくめた。次の瞬間にはアクセルを踏み込み、逃げるみたいに遠ざかっていく。
原子の口元から甘さが消えた。残ったのは、鈍いのに妙に落ち着いた――静かな狂気を湛えた目。
回り道をして病院の裏手へ向かう。雑草に埋もれた犬穴。
塞いでいたレンガを蹴り外し、身体を滑り込ませた。
コートとサングラスも犬穴へ放り捨てる。露わになったのは、いかにも病棟の患者が着る薄い病衣。
美しい髪をぐしゃぐしゃに揉み乱し、病院の中央に立つ大きな木へ、真っ直ぐ歩いた。
そして行儀よく木の下にしゃがみ込む。まるで、ずっとここに生えていたキノコみたいに。
顎を手首に乗せ、微動だにしない。
――これが、二ノ宮原子の三年間の日常だった。
この病院の中では、彼女はまだ「まともな部類」に入る。
戦場帰りで心を壊した老兵。核弾頭だ潜水艦だと研究し尽くして狂った専門家。一晩で十数人を刈った指名手配の殺し屋。
そんな連中が、なぜか一カ所に押し込められている。
その中で原子は、いちばん目立たない存在だった。
それでも舐められない程度の腕はいる。歯を食いしばって踏ん張り続けて、ようやく「いじめられない側」に残れた。
三年前。
二ノ宮薫子の仕掛けで、笹谷グループのろくでもない老人に嫁がされそうになった。薬を盛られた原子は、果物皿のナイフを掴み、老人を刺した。二度と子を成せないように。
その一件で、二ノ宮家は彼女をここへ捨てた。
『恩知らずの白眼狼! 笹谷さんにやるのはお前のためだってのに、それも分からないのか! 本ばっか読んで何学んだ!』
――学べたのだって、薫子の一言があったからだ。
学院を追い出されるのも、七十近い老人と縁談を結ばされるのも、薫子の一言で決まった。
あの頃は感謝していた。
今となっては――滑稽でしかない。
原子は音もなく自分のベッドへ戻り、ずっと眠っていたふりをした。
見回りの医師はそれを見て満足げに去っていく。
同じ頃――A市、金盛ビル。
薄原川人は会議室の革張りの社長椅子に深く座り、指先で肘掛けをとん、とん、と叩いていた。
向かいには四十代ほどの太った男が、腰を低くして書類を差し出す。二ノ宮正樹だ。
「薄原様。こちらが二ノ宮財団の前期の財務報告です。すべて完璧で、これまでどおり薄原様の投資基準にも適合しております。つきましては本日、次の四半期の協業計画を――」
薄原川人は一瞥しただけで言った。
「次の投資は、当面見送る」
完璧すぎる。だからこそ、臭う。
正樹の表情が固まる。焦りが目に滲む。
「ですが薄原様……」
秘書の林原淳が一歩前へ出て遮った。
「薄原様のお言葉は二度ありません。二ノ宮議員、お引き取りください」
正樹は食い下がる。
「薄原様、契約が無理でも構いません。市内の五つ星ホテルで食事を予約しております。せめて一席――」
薄原川人が眉を上げた。人情で揺さぶるつもりか。
手を伸ばし、企画書を正樹の前へ放る。
「二ノ宮議員。自分の問題がまだ分かっていないようだな。この書類、どれだけ水増しした? どれだけ偽った? 俺には全部見える。野心が顔に出すぎだ。くだらない駆け引きより、地に足のついた仕事をしろ」
薄原川人はCSAの最高責任者。それだけではない。
康奈尔大学で数学を教える教授でもあり、世界トップクラスの数学者にして精算の権威オスーの直弟子。――それも数ある肩書きの一つに過ぎない。
数字の嘘を見抜くのに、時間はいらない。
正樹は聞いていた。「薄原川人は切れる」と。
だがここまでとは思っていなかった。若くして、この目。
――こちらにとっては最悪だ。
正樹は金盛ビルを出たあと、先ほど口にした五つ星ホテルへ向かった。
「888」号室。
林原涼子と二ノ宮薫子は派手に着飾り、先に席についていた。母娘はひそひそ話をしていたが、正樹が入ると立ち上がる。
だが視線は彼の背後へ。
「……あなた一人? 薄原様は?」
正樹はネクタイを緩め、露骨な疲れを滲ませた。
「やめてくれ。次期の契約は断られた。飯も断られた」
「え……?」
涼子が呆然とする。テレビで見た薄原川人の姿が脳裏をよぎった。
「つまり……薄原様って、付き合いづらい人なの?」
「付き合いづらいんじゃない。そもそも俺たちと付き合う気がない」
正樹の顔は青い。
「今、二ノ宮は正念場だ。資金繰りを絶対に切らせない。もし切れたら……終わりだ」
帳簿は奪われ、いつ暴露されてもおかしくない。
大樹にすがれないなら、本当に詰む。
母娘は慌てて慰める。
「大丈夫よ。人間なら、やりようはあるわ」
「そうだよ、パパ。パパには――賢くて可愛い娘がいるじゃない?」
正樹が薫子を見る。ぼんやりした顔。
「お前が……何をする?」
薫子は勝ち誇った笑みを作った。
「パパ、私って芸能界で有名でしょ? 投稿ひとつで十万以上は回る。影響力は十分。薄原様みたいな優秀な男には、釣り合う女が必要なの。私が目の前に現れたら――絶対、折れる」
正樹と涼子が視線を交わす。
希望が、じわりと燃え始めた。
「……本当に、父親を救えるか?」
「もちろん。パパは黙って待ってて。いい報告、持ってくるから」
正樹は薫子の手を取った。
「頼む。契約に署名させるんだ。できれば資金も引き出してくれ。……ただ、薄原川人は気性が悪い。そこだけは――」
「大丈夫。分かってるから」
薫子は聞く耳を持たず、自分の夢の中に浸っていた。
