第4章

大きな手が鉄の鉤みたいに彼女の顎を挟み込み、ぐい、と距離を詰める。艶めいた気配が、二人のあいだにじわりと満ちていった。

吐息のすべてが、細く白い首筋に降りかかる。片手で折れてしまいそうな喉元へ。

「いいか。お前は彼女の役を演じろ。そうすれば大切にしてやる。だが、少しでも私心を持ったら――絶対に許さない。分かったか」

二ノ宮原子の瞳に、はっきりとした疑問がよぎったのを見て、薄原川人はくっと喉の奥で笑う。

そのくぐもった笑いが胸に響き、耳の奥がむず痒くなる。

原子は両手で、彼女の上半身を押さえつけている薄原川人の手首を必死に掴んだ。これ以上押されたら息ができない。なのに笑ってる。馬鹿じゃないの。

――それに、薄原川人の言う「彼女」って、誰?

愛人みたいにも聞こえる。けれど、どこか引っかかる。

薄原川人は、その「彼女」をやけに大事にしていて、依存しているみたいにさえ見えた。

初恋……とか?

その想像が、原子の胸に小さな希望を灯す。初恋なら最高。ベッドに上がらなくていい。隣にいて、相槌を打って、話を聞くだけでいい。成果はがっぽり。

運がよければ老後資金まで貯められるかも。

――で、ある日ふらっと消える。

それにしても、この別荘。最高だ。

いつか自分もこんなの建てられたら……いや、いっそ自分のものにしたい。

薄原川人が「こいつ、ぼーっとしてるな」とでも思った頃には、原子の頭の中では未来設計図が完成しかけていた。

そのとき、扉がノックされる。

精神病院にも一緒に来ていた林原淳の声。覚えている。

「薄原様。財団から連絡です。二ノ宮議員のご自宅で何か起きているようで、協業を急いでいたのは危機の転嫁だと」

「……やっぱりな。あいつは見た目からして胡散臭かった。で、何が起きた」

「物が消えた、と。詳細は伏せられており、まだ把握できていません。もう一件、二ノ宮家の二ノ宮薫子さんが薄原様にお会いしたいと」

このタイミングで面会希望。家を救うつもりなのが見え透いている。

薄原川人は興味を示さない。眉をわずかに上げただけで、林原淳は察し、二言三言を補足して去っていった。

ただ、林原淳が現れた瞬間から、腕の中の「小さな馬鹿」が妙に強張っている。

薄原川人が覗き込む。

「……知ってるのか?」

冗談のつもりの一言が、原子の心臓を跳ね上げた。

気づかれたら終わりだ。

彼女はベッドを支えて身を起こし、迷子みたいな目を向ける。

「それ、おいしい?」

薄原川人が一瞬固まり、すぐに笑う。胸の奥で震える笑い。

大きな手が原子の頭に落ち、ぐしゃぐしゃと撫でた。

「寝てろ」

薄原川人が出ていき、扉が閉まる。

原子はゆっくり首を巡らせ、鏡台の鏡に映る自分を見た。口元を「普通」の角度に落とす。

黒い目。さっきの愚鈍さは消えている。

乱れた前髪を指で整えながら、階下で車が去っていく音を聞いた。

それから静かに起き上がり、身支度を整える。

――寝る?

するわけない。

使用人の視線と監視の死角を縫い、梅苑を抜けようとする。

だが、数歩も行かないうちに、背後から聞き慣れた声。

「どこへ行く?」

片脚を踏み出したまま凍りつく。引くことも進むこともできず、ぎこちなく振り返る。

梅苑の大鉄門の脇。

薄原川人が腕を組み、門枠にもたれていた。口元には意地の悪い笑み。

黒い瞳には、嵐の前触れが溜まっている。

原子は唾を飲み込み、暴れる鼓動を押し殺した。

次の瞬間――。

原子は両腕をばっと広げ、羽ばたく真似をした。

庭を一周して戻り、薄原川人の前で犬みたいにくんくん匂いを嗅ぐ。

「わたし、大コウモリ!」

「逃げないと、血ぃ吸っちゃうよ!」

戻ってきた林原淳が、硬直する。

「若様、車の修理は終わりました。出発できます」

薄原川人は答えない。

二ノ宮原子を長く見つめたあと、腰を屈め、横抱きにした。

そのまま大股で二階へ。

使用人たちが息を呑む。

寝室。

原子が暴れようとすると、薄原川人は片手で封じ、ベッドへ押し付けた。

どんっ――と扉が勢いで閉まる。

原子がびくりと震え、薄原川人を見上げる。

危険な目。見透かすような視線。狩人のそれ。

顎をつまみ、軽く揺らしながら、掠れた低音が耳朶を撫でた。

「次に小細工したら、精神病院に送り返す。分かったか」

指先が顎から首へ滑り、襟元のネックレスを弄ぶ。

病院の患者用。位置情報と健康監視のためのものだ。

――もっとも、原子は中身を改造済みだ。いまはただの飾りに近い。

「わ、わかった」

怯えた、世間知らずの声を作る。

薄原川人は深追いしなかった。頭頂の髪をまた乱暴に撫でつける。

「いい子にしてろ。用がある。戻ったらすぐ会う」

そう言い残し、薄原川人は去っていく。

原子は二階のベッド脇に立ち尽くし、長い時間を置いた。

完全に出ていった気配を確かめてから、バルコニーへ出る。

手にはマッチ箱。梅苑のキャンドル用の特製だ。

原子はひとつ眺め、口元を歪める。

一本擦って――ぽい、と落とした。

ぼっ、と灌木が燃え、橙の光が広がっていく。

原子は満足げに前髪を整え、両手を口元に当てて甲高く叫んだ。

悲鳴に使用人が集まる。二階を見上げる余裕もない。

若様のお気に入りの植え込みが燃えているのを見て、皆が青ざめ、消火器とプールの水で右往左往し始めた。

原子は一瞥だけ投げ、部屋へ引き返す。

小さな鞄に必要なものだけを詰め、監視を避けて門へ走った。

梅苑を抜けた原子が向かったのは、栄安大厦。

見上げれば、数百メートル級の超高層。100階を超える。

市内では金盛大厦に次ぐ高さだ。

ガラスの回転扉の向こうには、がらんとした豪奢さ。

原子はそのまま足を踏み入れ、エレベーターホールへ向かった。

だが、脇から警備員が数人、早足で寄ってきて行く手を塞ぐ。

「失礼します、お嬢さん。当ビルの従業員の方ですか? お見かけしないお顔でして」

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