第1章
江原安美は思いもしなかった。いつか自分が、夫と――その愛人のために、プロポーズのペアリングをデザインする日が来るなんて。
工房の主任に連れられてVIPルームへ入ったとき、川崎佑哉はひとりの女の手を握っていた。
その瞳に宿るのは、結婚して三年、一度として安美に向けられたことのない温度――気遣い。
「わざわざ自分で来てサイズ測る必要あるか? 店にスタッフ寄こさせればいいだろ」
彼の胸元に寄り添った少女が、舌をぺろりと出して甘えた。
「だって最近、ずっと外に出てないんだもん。少しは歩かなきゃ。……それより佑哉、今日大事な会議あるんじゃないの? 遅くなったら困らない?」
いつも仕事を何より優先するはずの川崎佑哉が、彼女の手を包むように握り返し、驚くほど優しい声で言った。
「いま俺にとって、おまえより大事な用なんてない」
――その顔、何度も見た。
川崎佑哉の財布に入っていた写真。高嶺の花みたいな初恋の人、鈴村千雪。
背後では、数人のインターンが羨望の視線を向け、ひそひそと囁き合っている。
「川崎様みたいな男と結婚できるなんて最高だよね。婚約指輪の予算が1000万って噂だし、式も準備中で、星光ビーチを丸ごと貸し切りなんだって。私もいつか……」
江原安美は遠くから二人を見つめ、スマホを握る指先が白くなるほど力を込めた。
幸せ……?
本当は『彼に嫁ぐべき』なのは自分じゃなかった。だからその幸せは、一度も安美の手には落ちなかった。結婚して三年、受け取ったものは冷えきった視線ばかり。
今朝だってそうだ。
「いつ帰ってくるの?」と送ったメッセージに、三時間後ようやく返ってきたのは――たった一文字。
『忙しい』
忙しい理由が、高嶺の花との結婚準備だなんて。
安美は口を開きかけて、言葉を失った。胸の奥に長く居座っていた冷えが、じわじわと全身へ広がっていく。痛いほど冷たい。
逃げ出したい――そう思った瞬間、主任が背中を押すように声をかけた。
「安美、何ぼーっとしてるの。早く中に入って」
川崎佑哉がその声に振り返り、安美と目が合う。
眉がきつく寄せられ、手すりに置かれた手の血管が浮き上がった。顔色が一気に硬く冷える。
安美は目を逸らしたかった。だが主任は容赦なく肩を抱き、二人の前へ連れていく。
「川崎さん、鈴村さん。こちらが当店でお二人のご希望に最も合うデザイナーです。技術は保証しますので、何でも遠慮なくお伝えください」
「安美、川崎さんは大事なお客様なんだから、しっかりね」
川崎佑哉の暗い視線に晒され、安美は爪が掌に食い込むのを感じた。
我に返り、仕事の顔で頭を下げる。
「デザインのご希望はございますか。それとも、先にサイズをお測りいたしましょうか」
川崎佑哉は唇を引き結び、黙ったまま。
代わりに鈴村千雪がにこりと笑った。
「江原さんのポートフォリオ、昨日拝見しました。どれも好きな雰囲気で。じゃあまずサイズから。あとはあなたの感性で、いくつか案を出していただけます?」
安美は目を伏せ、川崎佑哉を見ないように作業台へ向かう。
メジャーを取り、淡々と測定を始めた。
だが、リングサイズを記録していると、鈴村千雪がさらりと付け足した。
「できればリングはフリーサイズにしてほしいの。私、妊娠してるから。式の頃には指が太くなるかもしれないし、調整できた方がいいよね」
安美の手が止まった。
今になって気づく。彼女の腹部がわずかに膨らんでいる。
口の中に苦味が込み上げ、喉が詰まる。川崎佑哉に見せるつもりで鞄に入れたままの、妊娠検査の報告書。――自分の子は、今日でまだ五週。
鈴村千雪の腹は、どう見ても三ヶ月以上だ。
じゃあ、あの夜は何だったの?
高嶺の花に手を出して後ろめたいから、慈悲で一晩だけ『施して』くれた……?
ペンを持つ手が震え、視界の端が熱く滲む。安美は必死に俯いて、川崎佑哉のサイズを測ろうとした。
指先が彼の長い手に触れた瞬間――川崎佑哉は険しい顔で手を引いた。
「いい。俺はあっちで測る」
ペンとメジャーが床へ落ち、カン、と乾いた音が響く。
安美の身体が小さく強張る。何事もなかったように屈んで拾い上げた。
川崎佑哉は無言で部屋を出ていく。目も合わせない。
鈴村千雪が柔らかく笑い、代わりに謝った。
「ごめんなさいね。佑哉、人に触られるのがあまり好きじゃなくて。怒ったわけじゃないから、気にしないで」
気にしないなんて無理だ。
この三年、冷たい顔なら見飽きるほど見た。今のは、氷山の一角。
それでも――彼女の言葉に混じる親しさが、胸の奥を刺す。
安美は「大丈夫です」とだけ答え、形だけの挨拶をして応接室を出た。
オフィスへ戻ろうと廊下を曲がったところで、川崎佑哉とぶつかった。
彼は火を点けていない煙草を指で挟み、目の底がひどく冷たい。
「どうしてここで働いてる」
可笑しくて、泣きたくなる。
来る前に伝えたはずなのに。彼はたぶん聞いてもいなかった。いつも通り、冷たく「勝手にしろ」と言っただけ。
川崎佑哉にとって安美は、恥知らずにもベッドに潜り込み、金目当てで川崎家に入り込んだ女。鈴村千雪が海外にいた間、やむを得ず結婚しただけの存在。興味を向ける価値すらない。
もう、何も言いたくなかった。
「友達の店です。暇だったので来ただけです」
川崎佑哉がじっと見下ろす。周囲の温度が下がった気がした。
彼は何を言うつもりだろう。
祖父に告げ口するな? それとも関係を隠せ?
長い沈黙のあと、川崎佑哉は淡々と言った。
「明日、弁護士に離婚協議書を届けさせる」
「慰謝料はケチらない。家でも現金でも、株でもいい。常識の範囲なら要求していい」
煙草を弄ぶ指だけが動く。瞳には一片の温度もない。
「お爺さんは最近体調がよくない。刺激するな。仮に反対されても、俺の決定は変わらない」
安美は固まった。
胸の痛みが、ふっと消えて、空洞になる。
説明も警告もいらない。ただ一言で片づけられる。
彼にとって自分は、金で処理できる『厄介ごと』でしかない。
問いただしたい。
この三年、自分の必死な努力や、ぎこちない愛情が――一瞬でも彼の心に触れたことはあるのかと。
でも口にしたら、もっと惨めになるだけ。
安美は小さく言った。
「いりません」
川崎佑哉が眉をひそめた。
「まだ縛りつく気か?」
安美は静かに首を振る。
「違います。補償はいりません。離婚したら、私は身一つで出ていきます」
「その後も、あなたと鈴村さんの邪魔はしません。私たちは……もう、無関係です」
川崎佑哉が一瞬だけ目を見開き、探るような視線を向けてきた。金を望まないことが意外なのだろう。
安美はもうこの顔を見たくなくて、踵を返した――そのとき、背後から足音。
「佑哉……あれ、江原様? 何してるの?」
振り返ると、バッグを持った鈴村千雪がこちらへ来ていた。二人を見比べ、首を傾げる。
「……あなたたち、知り合いなの?」
安美が答える前に、川崎佑哉は自然に距離を取った。
「いや。予算と要望を伝えただけだ」
彼は鈴村千雪の肩にジャケットをかける。
「外は雨だ。早く帰ろう」
鈴村千雪は嬉しそうに頷き、ふと思い出したように封筒を取り出した。
「これ、江原様の? さっきソファで拾ったの。病院の判子があったから、大事なものかなって」
江原安美の瞳孔が、きゅっと縮む。
――妊娠検査の報告書。
