第11章
江原安美は反射的に手を上げ、自分の顎をそっと撫でた。目立たないようにして、川崎佑哉をきっと睨む。
――全部、こいつのせいだ。
川崎佑哉の冷えた視線が、真正面からぶつかってくる。
江原安美は顔を半分そらし、引きつった笑みを貼り付けた。
「さっき車の中で、顎に手を当てたまま寝ちゃって……その跡かもしれません」
川崎お爺さんの目は誤魔化しが利かない。佑哉を一瞥し、それから安美の顔へ視線を移す。笑みがわずかに薄れたが、追及はしなかった。
「安美、手を洗っておいで。もうすぐご飯だ。大崎に、お前の好きな酢豚を作らせたからな」
「はい」
江原安美は赦されたように息をつき、足早に洗面所へ向かった。
川崎佑哉も後を追おうとしたが、川崎お爺さんが低い声で呼び止める。
「佑哉。書斎へ来い。聞きたいことがある」
書斎。
川崎お爺さんは紫檀の机の向こうに座り、眉間に深い皺を刻んでいた。
「顎の指の跡――お前がやったな?」
川崎佑哉の目が沈む。否定しない。
「……はい」
バンッ、と机が鳴った。
「安美はお前の妻だ。この三年、あの子が川崎家でどれだけ肩身の狭い思いをしてきたか、わしが見ていないとでも思ったか!」
叱責は止まらない。
「今のお前は偉くなったつもりで、わしのことすら眼中にないのか」
川崎佑哉は背筋を伸ばしたまま、温度のない声で言う。
「お爺さん。俺と彼女のことは……あなたには分からない」
川崎お爺さんが冷笑する。
「分からない? 何を分かればいい。安美を冷えきった扱いで放り出して、外の女を孕ませたことか?」
川崎佑哉は眉を寄せた。鈴村千雪の子どもが自分の子であるはずがない。だが、今さら説明する気はなかった。
「千雪は浮気相手じゃない。腹の子も……野種じゃない」
川崎お爺さんは立ち上がり、佑哉の目の前まで歩み寄る。声は低いが、圧がある。
「佑哉。お前にはずっと教えてきた。人間は、責任から逃げるなと」
「安美は嫁いで三年、慎ましく暮らし、川崎家にもお前にも、何ひとつ恥ずべきことはしていない。それを、お前はどう扱った?」
川崎佑哉は黙った。
川崎お爺さんは椅子へ戻り、吐息のように言った。
「鈴村千雪とは、わしがもう話をつけてある。あの子が身籠っている子どもについては、川崎家が面倒を見る。だが――川崎の門をくぐらせることはない」
川崎佑哉が勢いよく顔を上げた。
「お爺さん……!」
「この件は譲らん」川崎お爺さんは切って捨てる。「それでも鈴村千雪と一緒になりたいなら、それでもいい。今すぐ安美と離婚しろ。安美はわしが養女にする」
川崎佑哉の顔色がさらに暗く沈んだ。
「言うべきことは言った。よく考えろ」
川崎お爺さんは肩を落とし、「……飯にしろ」とだけ告げた。
食卓の空気は、どこか噛み合わない。
大崎が料理をずらりと並べ、川崎お爺さんは江原安美の皿へ次々と取り分ける。
「安美、もっと食べなさい。痩せたじゃないか」
「ありがとうございます、お爺さん」
江原安美は俯いて、小さく箸を進めた。
向かい側の川崎佑哉は、一言も発さない。
川崎お爺さんは二人を見比べ、ふいに言った。
「安美、食べ終わったら書斎へ来なさい。お爺さんから話がある」
江原安美の箸が一瞬止まる。
「……はい、お爺さん」
食後、江原安美は川崎お爺さんに続いて書斎へ入った。
扉が閉められる。川崎お爺さんは座るよう促し、慈しみの中に申し訳なさを滲ませた。
「安美。この三年……つらい思いをさせたな」
鼻の奥がつんとした。江原安美は必死で堪える。
「お爺さん、そんな……」
「佑哉は……わしの育て方が悪かった」
川崎お爺さんは引き出しから封筒を出し、机越しに滑らせた。
「これを受け取れ」
江原安美は戸惑いながら封筒を開ける。中は小切手だった。
金額を見た瞬間、息を呑む。――5000万。
「お爺さん、こんなの受け取れません!」
慌てて押し返そうとすると、川崎お爺さんが彼女の手を押さえた。
「焦って断るな。よく聞きなさい。これは、わし個人からのお前への金だ。川崎家とも佑哉とも関係ない」
「妹の病気には金が要る。海外で暮らすにも金が要る」
江原安美は驚いて、思わず口にしてしまう。
「……どうして、それを……?」
川崎お爺さんは手の甲を軽く叩く。
「お前たちのことは、わしは全部知っている。今まで口を出さなかったのは、夫婦のことに首を突っ込めば、お前の立場が悪くなると思ったからだ」
江原安美の目が一気に赤くなる。
「安美、すまなかった」
川崎お爺さんの声が少し震えた。
「あの頃、わしが無理を言って佑哉にお前を娶らせた。時間が経てば、あいつもお前の良さに気づくと信じていた……だが、結果はお前を苦しめただけだった。こんなにも長い時間を、奪ってしまった」
「違います、お爺さん……」
江原安美は首を振る。とうとう涙が落ちた。
「お爺さんは私に、ずっと優しくしてくれました。この三年、お爺さんがいなかったら……私、もうとっくに駄目になってた」
唇を噛む。視界が滲む。
川崎お爺さんは静かに言った。
「安美。お前は言わないが、苦しいのは分かっている」
「いいか。これからお前が何を選んでも、お爺さんは味方だ」
「お爺さん……」
江原安美は声にならず、肩を震わせた。
「泣くな」
川崎お爺さんはティッシュを差し出す。
「涙を拭きなさい。小切手はしまって、誰にも見られるな」
江原安美は頷き、慎重にバッグの奥へ小切手をしまった。
書斎を出たときも、目はまだ赤い。
廊下の先に川崎佑哉が立っていた。煙草を吸っていたらしく、彼は吸い殻を揉み消して近づく。
視線が彼女の顔に釘づけになる。
「泣いたのか? お爺さんに何を言われた」
江原安美は目を逸らす。
「別に……近況を聞かれただけ」
川崎佑哉は納得していない顔だったが、それ以上は追及せず、淡々と言った。
「午後は会社に戻る。夜は帰る」
「……うん」
江原安美は適当に返し、二人の部屋へ向かった。
おかしい。今まで一度も、帰宅時間をわざわざ言ってきたことなんてない。離婚が見えてきた途端、良い夫ぶる気なのか。
川崎お爺さんは「あと二日ほど泊まっていけ」と言い、江原安美も、少しでも一緒にいたいと思って断らなかった。
川崎佑哉も、特に反対はしない。
その二日間、川崎佑哉は毎日早朝に出て深夜に帰り、江原安美は書斎に籠もって過ごした。顔を合わせることはほとんどなかった。
そしてある夜。
江原安美が身支度を終えて出てくると、ソファに川崎佑哉が座っていて、思わず息を呑んだ。
――まだ会社のはずじゃ?
胸に手を当て、警戒して問う。
「今日、どうしてそんなに早いの」
川崎佑哉が立ち上がり、ゆっくり近づく。逃げ道を潰すみたいに、一歩、また一歩。
「江原安美。ここ数日、お前……俺を避けてるだろ」
「避けてない」
江原安美は後退し、背中が壁に当たった。
「私、やましいことなんてない。なんで避けるの」
川崎佑哉は淡々と、まるで世間話みたいに言った。
「俺の子を腹に抱えたまま、離婚するつもりだったんじゃないのか」
心臓が跳ね上がる。だが顔には出さない。
「何言ってるの」
川崎佑哉の視線が、彼女の腹へ落ちる。
「前に『生理だ』って言ったのは嘘だろ。掃除のメイドに聞いた。この数日、お前はその手の物を使ってない」
さらに、確信めいた低い声。
「周期もかなり遅れてるはずだ。……妊娠してるな、江原安美」
