第4章

江原安美は箸を動かす手をふと止めた。胸の奥がきゅっと締まり、込み上げる酸っぱさを必死に押し込んで、声を落とす。

「まだ入院しています。あまり良くはないですけど……少しずつ治療してます」

綿子が白血病だなんて言えるはずがない。川崎お爺さんに心配をかけたくないし、この話が川崎佑哉の耳に入れば、余計な火種になる。

川崎お爺さんは頷き、それから川崎佑哉へ視線を移す。諭すような、しかし重みのある声だった。

「結婚して三年だ。年も若くはない。そろそろ子どものことも考えなきゃな。わしがまだ元気なうちは、手伝ってやれる」

その言葉に、安美の指先が箸を強く握りしめた。目を伏せたまま、誰の顔も見られない。

妊娠している。けれど、いまは公にできない。

川崎佑哉は眉をひそめ、適当に受け流すように言う。

「お爺さん、まだ急ぎません。俺はいま会社が忙しいし……千雪のこともある」

「千雪?」

川崎お爺さんの顔がみるみる曇り、箸を置いた。佑哉を睨みつけ、声を荒らげる。

「前から言ってるだろう。あの子は心がまっすぐじゃないと! 安美は三年もお前のそばで尽くしてきた。一途に支えてきた。それを大事にせず、外の女に心を向けて……安美に申し訳ないと思わんのか!」

「お爺さん、千雪はそんな子じゃない」

佑哉の声が思わず強くなる。

「身体も弱い。俺が責任を――」

「責任だと?」

川崎お爺さんが机を叩く勢いで身を乗り出す。

「その子に責任を取るなら、安美の責任は誰が取る!」

怒りに顔を赤くし、髭を震わせて言い切った。

「よく聞け、川崎佑哉。わしが認める孫嫁は安美だけだ。鈴村千雪が川崎家に入る? 門を叩いたところで無駄だ!」

祖父と孫の言い争いを眺めながら、安美の胸はぐしゃぐしゃに波打つ。慌てて割って入った。

「お爺さん、怒らないでください。子どもは……私と佑哉が、いまは考えてないだけです。誰のせいでもありません。ほら、お料理が冷めちゃいます。お爺さん、食べてください」

川崎お爺さんは、安美の健気さに胸を痛めたように深く息を吐き、それ以上は言わなかった。ただ黙々と、安美の皿へ料理を取り分け続ける。

そのとき――川崎佑哉は、安美の小さな違和感に気づいた。

「子ども」という言葉に、安美は無意識に下腹へ手を添えた。食事中も、生ものや辛いものを避けている。

佑哉の目の奥に、薄い疑念が浮かぶ。

あの病院の報告書。視線を逸らした仕草。さっきの「妊娠してても残さない」という言葉。思い返すほど、どこか噛み合わない。猜疑心が蔦のように絡みつき、じわじわと濃くなっていく。

夕食のあと、川崎お爺さんは安美を長く引き留めた。身体を大事にしろ、困ったら言えと繰り返し、最後にはこっそり銀行カードまで握らせる。

「妹の治療に使え」

安美は断りきれず受け取り、胸がいっぱいになった。

佑哉はそれを傍で見て、言いようのない顔になったが、何も言わなかった。

老宅を出るとき、川崎お爺さんが佑哉の腕を掴み、低い声で釘を刺す。

「安美を泣かせるな。次やったら許さん。鈴村千雪とは切れ。ちゃんと安美と暮らせ!」

佑哉は曖昧に頷き、安美を連れて外へ出た。

車に乗り込むなり、佑哉はスマホを取り出す。安美が窓の外へ視線を向けた隙に、秘書へ短く打ち込んだ。

『市中心医院で江原安美の妹の病状を調べろ。江原安美の最近の診療記録も』

送信した直後、鈴村千雪から着信が入る。

佑哉の声は驚くほど柔らかかった。さっきまでの冷たさが嘘のように。

「千雪、どうした?」

『佑哉……お腹が痛いの。少し出血も……怖い。来てくれない?』

佑哉の顔色が変わる。

「動くな。すぐ行く」

通話を切るなり、ぎいっと急ブレーキ。安美へ氷みたいな声を投げた。

「お前、タクシーで帰れ。千雪が具合悪い」

さっき、老宅でお爺さんが「安美を大事にしろ」と言ったばかりなのに。

佑哉の焦りは、安美の胸を凍らせた。

安美は何も言わず、ドアを押し開けて降りる。未練の欠片もない。

佑哉はその細い背中を一瞬だけ見て、胸のどこかがちくりと痛んだ。だが、千雪の顔が浮かぶと、その痛みは霧みたいに消える。アクセルを踏み込み、夜の道へ車を滑らせた。

安美は路肩に立ち、晩秋の風に身体を震わせた。外套を抱き寄せ、遠ざかるテールランプを見送る。完全に消えたころ、ようやく涙がぽとりと落ちた。

三年の結婚は、結局ぜんぶ――間違いだった。

最初から最後まで、彼の中で自分は紙切れ以下。鈴村千雪の甘え声ひとつにも勝てない。

安美は涙を拭い、スマホで配車アプリを開いた。

晩秋の風が頬を切る。指先は氷みたいに冷たく、画面を何度も更新するのに、車は捕まらない。

佑哉の車はもう影もない。この道はそもそも人通りが少なく、夕方でも通る車はまばらだ。

薄いワンピースの裾を押さえたとき、下腹の奥に鈍い痛みが走り、安美は眉をひそめた。手を当て、焦りと不安がせり上がる。

少しでも大通りへ――そう思って歩き出しかけた、そのとき。

見覚えのある黒いセダンが、すうっと静かに止まった。

窓が下がり、陸田明広の穏やかな目元が覗く。

「安美? こんな時間に、どうしてここに」

驚きに満ちた声。安美の青白い顔と、ぼんやりした目を見た途端、明広はすぐ車を降りてきた。

「早く乗れ。風が強い。冷えるぞ」

安美は一瞬呆け、相手が幼なじみだと分かると、張り詰めていた糸がほどけた。目の縁が赤くなる。

「明広……どうして」

助手席に身を沈めた瞬間、暖房のぬくもりがふわりと包む。それでも震えが止まらず、肩が小さく揺れた。

明広は温かい生姜茶を差し出し、眉を寄せる。

「さっき病院で綿子の見舞いをしてきたんだ。用事でこの辺を通ったら……」

言葉を切り、安美をじっと見る。

「……川崎佑哉の野郎がやったのか? こんな場所に置き去りにして」

安美はカップを受け取る。指先にじんわり熱が戻った。

「……佑哉のせいじゃない。私が降りただけ」

彼の名前を出したくなかった。口にするほど、余計に疲れる。

明広はそれ以上追及しなかった。速度を落とし、落ち着いた声で言う。

「最近、身体きついだろ。無理するな。何かあったら、すぐ俺に電話しろ。ひとりで抱え込むな」

その視線が、安美が下腹に添えた手へふと落ちる。何かを察したように、目がわずかに揺れた。

けれど明広は、何も言わなかった。

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