第6章

三年の結婚――彼女の胸いっぱいの熱は、結局、犬にくれてやっただけだった。

その翌日、江原安美は無菌室の外、モニターの前に張りついたまま一歩も動かなかった。

画面の中の綿子はずっと目を閉じている。ときおり眉を寄せ、激痛に耐えているみたいに顔を歪めた。

その小さな動きひとつで、安美の胸はきゅうっと締めつけられる。

目を閉じるのが怖い。綿子が起きる瞬間を、見逃したくなかった。

空腹はパンをかじって誤魔化し、喉は冷たい水を数口。下腹にじくじくと重い痛みが落ちてくるたび、気づかないふりで飲み込んだ。

その間、彼女は一時間おきに川崎佑哉へ電話をかけ続けた。

けれどコールは虚しく響くだけで、誰も出ない。LINEも既読にならないまま、海の底に沈んだ石みたいに返事がない。

助手にも事情を送った。妹の緊急事態だ、どうか佑哉に伝えてほしい――そう頼んだのに、そこからも何ひとつ返ってこなかった。

それでも、良い知らせもあった。

翌朝。かさ、かさ、と廊下を行く足音で目が覚める。視線を上げると、いつもの回診の医師団だった。

安美は病室の外に立ち、両手を胸の前でぎゅっと合わせる。声にならない祈りを呑み込みながら。

「江原さん、患者さんの容態は、ひとまず少し安定しました」

大崎医師は、彼女の疲れきった顔を見て声を和らげた。

「あなたも身体を大事にしてください。一度、帰って休みましょう」

「……ありがとうございます、先生。何かあったら、すぐ連絡してください」

綿子が安定した。その言葉だけで、安美の喉の奥が熱くなり、目が一気に赤くなる。

大崎医師は小さく頷き、同情の色を隠さずに見送った。

江原安美は重い足を引きずって病院を出た。

朝の街はやけに冷え、ひと気も薄い。彼女はタクシーを止める。

その瞬間、溜め込んでいた疲労がどっと押し寄せ、視界がぐらりと暗く揺れた。

道中はほとんど眠っていた。別荘に着いても、なぜか降りたくない。

豪奢に整えられたこの家で、彼女は三年ずっと――居候みたいに暮らしてきた。帰る場所のはずなのに、どこにも自分の居場所がない。

玄関に、見慣れた男物の革靴が置いてある。

安美が目を落とした途端、胸の内側が細かい針で刺されたように痛んだ。

川崎佑哉の靴。彼が家にいる?

今ごろ鈴村千雪のそばにいるか、会社で仕事に追われていて返事ができないのだと、勝手に思い込んでいた。

違った。ただ、冷たいだけ。最初から。

靴を履き替えてリビングへ入ると、案の定、川崎佑哉がソファに座っていた。手には書類。表情は淡い冷たさのまま。

黒のルームウェア姿で、普段の鋭さは薄れているはずなのに、近寄りがたい距離だけは消えない。

足音に気づき、彼が視線を上げる。声音は刃物みたいに冷たかった。

「帰ってくる気はあったんだな」

青白くやつれた彼女の顔を一瞬だけ見て、眉がわずかに寄る。だが、それ以上は何も聞かない。

安美は言い争う気力がなかった。無意識に服の裾を握りしめ、頭を下げるように声を落とす。

「川崎佑哉……お金、貸してくれない?」

誇りも何も、全部いったん床に置いた。

綿子を生かせるなら、それでいい。

佑哉は書類を机に置き、冷えた目で見据える。瞳の奥に嘲りが滲んだ。

「金を借りる? 江原安美、計算が上手いな。昨日は『何も要らない』って言っておいて、次は金か。離婚を口実に、俺からむしり取る気だろ」

彼には最初から決めつけがあった。安美が本当に手ぶらで出ていくわけがない、と。あの言葉は駆け引きだ、と。

そして今、その「本性」が出た――そう見えている。

佑哉の中で、江原安美はずっと金目当ての女だった。川崎家に入り込むために必死になり、出ていくなら出ていくで、最後に得をしてから――。

「違う!」

安美は焦りで目が潤み、息を詰めたまま言葉を重ねる。

「あなたのお金を騙し取るんじゃない。綿子の治療にお金がいるの……! 白血病なの。悪化して、無菌室に入ってて、1日で何十万もかかる。病院から100万の保証金を先にって言われて……そのあとも分子標的薬とか、費用が……私、どうしても用意できないから……お願い、貸して」

早口で吐き出す声は震え、目の中の怯えと必死さは作り物には見えなかった。

川崎佑哉は、助手から数日前に来ていた連絡を思い出す。

江原綿子が急性リンパ性白血病だと診断された――あれは、安美が仕立てた嘘だと片づけていた。

だが、今は違う。本人の口から出た事実が、胸の奥で重く沈む。

それでも表情は崩さない。彼は淡々と告げた。

「白血病? 本当だとして、それが俺に何の関係がある。妹はおまえの身内であって、川崎家の人間じゃない。治療費を出す義務はない」

氷の杭が、心臓に真っすぐ打ち込まれた。

安美は信じられないという顔で見上げ、声がかすかに震える。

「川崎佑哉……私は、名目上でもあなたの妻なのに。綿子は私の、たった一人の家族よ。どうしてそんなに冷たいの? 借りるだけ。デザイン料が入ったら、必ず返すから」

「返す?」

佑哉が鼻で笑い、立ち上がる。背の高さと体格が、そのまま圧力になって迫ってくる。

「何で返す。おまえのデザイン画か? 江原安美、可哀想なふりはやめろ。俺はその手に乗らない」

そして、唐突に話が逸れた。いや――彼の中では、逸れてなどいないのかもしれない。

「それより昨日、病院で陸田明広とずいぶん仲良さそうだったな。あいつ、医療費まで立て替える勢いだった。おまえら、どういう関係だ」

鋭い視線が絡みつく。探る色。その奥に、ほんのわずかな怒り。

昨日、病院で見た光景。寄り添うみたいに並ぶ二人の姿が、胸に石の塊を落としたまま消えなかったのだろう。

助手が調べたところ、陸田明広は幼なじみ。小さい頃から一緒で、縁が深い――そういう報告も。

江原安美は一瞬、言葉を失った。まさか今その話を持ち出されるなんて。

「……明広とは幼なじみよ。助けてくれただけ。あなたみたいに、冷たい目で見て風凉話を言う人じゃない」

吐き捨てるように言ってから、安美はもう一度、真正面から問う。

「川崎佑哉。もう一回聞く。お金、貸してくれるの。貸してくれないの」

彼の気持ちを読む余裕なんてなかった。綿子のことだけで頭がいっぱいだ。今すぐ金がいる。それだけ。

「幼なじみ?」

佑哉は引かなかった。むしろ苛立ちを隠すように、安美の手首を掴む。ぎり、と骨に響く痛みで、安美が眉を寄せる。

「幼なじみ程度で、医療費を喜んで立て替えるかよ」

「ほんとに……話にならない!」

安美は力いっぱい腕を引こうとする。だが、掴む手はさらに強くなる。悔しさと焦りが爆発して、口が荒くなった。

「川崎佑哉、離して! 明広とは何もない! それよりあなたは? 鈴村千雪とべったりのくせに、何を偉そうに私を責めるの。冷たくて身勝手で、都合のいいダブスタ野郎!」

佑哉の眉間が深く刻まれる。声は低く、凍るほど静かだった。

「江原安美。陸田明広との関係をきちんと言えないなら……俺が手を出す。何が『本当の無情』か、教えてやる」

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