第8章
二人がジュエリーのオーダーメイド店から戻ったのは、少し遅い時間だった。
鈴村千雪がどうしても、と川崎佑哉を引っぱって婚約指輪――いや、結婚指輪の製作の細部まで確認させたせいで、予定より手間取ったのだ。
車を別荘の前に停めた途端、玄関に江原安美が立っているのが見えた。
陸田明広が身をかがめて彼女に近づき、距離はほとんどゼロ。
この角度からだと――キスしているように見える。
千雪がわざとらしく言う。
「佑哉、見て。江原さんと陸田さん、すごく仲良さそう。あの二人も、そろそろなんじゃない?」
佑哉の顔が一気に曇った。空気が、ひゅっと冷える。
玄関先の二人を射抜くように睨み、拳を無意識に握りしめる。白く浮く関節。
さっきまで彼は、江原安美のデザインの才能のことを考えていた。
――だからこそ、秘書に指示して、妹の治療費の追加分まで病院の口座へ前倒しで振り込ませたばかりだったのに。
それなのに、この女は。
他の男といちゃつくだけじゃない。家にまで連れ込んで。
佑哉の声は氷みたいに冷たかった。
「俺には関係ない」
陸田明広は二人の横を通り過ぎるとき、品よく軽く会釈した。
佑哉の瞳は黒々としていて、感情の底が読めない。
安美はその気配に気づき、振り返る。佑哉と千雪を見た瞬間、顔の温もりがすっと消え、踵を返して中へ入ろうとした。
「待て」佑哉が命じる
安美の足が止まる。
「何か用?」
「さっき、陸田明広は何しに来た」佑哉が問う
「私が落としたものを届けに」
「物を渡すのに、あそこまで近づく必要があるのか」
佑哉は一歩、また一歩と詰め寄る。背の高さと体格が、そのまま圧力になって押しつぶしてくる。
「江原安美。俺が前に何て言った? 大人しくしてろ、陸田明広と関わるなって。俺の話、聞いてなかったのか」
安美は眉を寄せた。
「ただ届けてくれただけよ。変に誤解しないで」
「誤解?」
佑哉が鼻で笑う。
「俺ははっきり見た。もう少しで口づけするところだった。あれも誤解か? 江原安美、おまえはそんなに陸田明広と一緒になりたいのか。離婚協議書にサインもしてないのに、堂々とデートか?」
「川崎佑哉、少しは道理をわきまえてよ」
安美の胸が、きり、と痛んだ。怒りで心臓を掴まれるように苦しい。
「私と明広は何もない。自分の汚い考えで、こっちを測らないで!」
「何もない?」
佑哉は冷えた笑みを浮かべる。
そこへ千雪が絶妙なタイミングで割り込んだ。佑哉の腕にそっと絡みつき、柔らかい声で。
「佑哉、そんなに怒らないで。江原さんと陸田さんが仲いいのも普通だよ。だって陸田さん、江原さんにすごく優しいし……治療費だって立て替えてくれるくらいでしょ? 佑哉はいつも江原さんに冷たいから、心が他に向いても仕方ないよ」
宥めるふりをして、火に油。
陸田明広の「してやった」をわざと強調し、佑哉の所有欲を煽る。
佑哉の顔色がさらに沈む。
自分でも分からない。
愛していないはずだ。まもなく千雪と結婚するはずだ。
それでも、安美が他の男に近づくのが――どうしようもなく腹立たしい。
「結婚指輪のデザイン、作り直せ」
佑哉の口調は硬く、露骨に報復の色が混じった。
「今日中だ。24時間以内に仕上げろ」
安美が目を見開く。
「……何でよ」
「俺がクライアントだからだ。気に入らないと言ったら、気に入らない」
佑哉は一切譲らない。
「作り直したくないなら、それでもいい。妹の治療費の続きは、自分で何とかしろ」
――自分が先に振り込んだことは、知らせる気がなかった。
安美の心が、どさりと底へ落ちる。
ここまで卑怯な真似を平然とやるなんて。
「川崎佑哉、最低よ! 約束を守らないなんて!」
「俺が約束を守らない?」
佑哉は無表情のまま、さらに近づいた。
「先に約束を破ったのはおまえだろ。陸田明広と不清楚なことをして。江原安美、金が欲しいなら大人しく従え。妹が生きるか死ぬかは、おまえ次第だ」
氷の錐が、胸の奥にねじ込まれる。
冷えきった目を見て、安美は悟った。――この男は言ったことをやる。
綿子のため。
また、折れるしかない。
「……分かった。作り直す」
声が震える。
「今度こそ、言った通りにして」
佑哉は彼女の背中を見送った。
胸のどこにも、復讐の快感なんて湧かない。代わりに、名のない苛立ちがぐるぐると渦を巻く。
彼は自分が何を望んでいるのか分からない。
ただ、彼女が他の男に近づくのを見ると――自分と同じように苦しめたくなる。
その様子を隣で見ながら、千雪は指先をぎゅっと握り込んだ。
佑哉の態度は、どう考えても変だ。
口では冷たいのに、さっきの怒りは――まるで嫉妬。
まさか。
川崎佑哉は、まだ江原安美を――?
その発想が、千雪の背筋を冷やす。
許せるはずがない。二人を一刻も早く離婚させなければ。
「佑哉、もう怒らないで」
千雪が腕を引き、甘く宥める。
「私、あのデザインほんとに好きだったし、作り直す必要ないよ。時間ももったいないし」
「問題ない。作り直させれば、選択肢も増える」
佑哉の声は少し和らいだ。
自分がさっき、理屈の通らないことをした自覚はある。
それでも、止められなかった。
時間がない。
安美は食事も水も、トイレに行く暇すら削り、最速で新しいデザインをまとめ上げた。
疲れた身体を引きずるように階段を下り、デザイン画を渡して早く支払わせようとリビングへ行く。
ソファに佑哉が座っていた。赤ワインのボトルを片手に、もう半分以上空いている。
安美はテーブルにデザイン画を置く。
「できた。見て」
佑哉が顔を上げる。弱い照明に照らされた彼女の顔は、青白く、やつれていた。
その瞬間、佑哉の目の奥に複雑なものが滲む。
彼はデザイン画を見ようとせず、立ち上がった。
そして一歩ずつ、安美へ近づいてくる。
「江原安美。そんなに俺から離れたいのか。陸田明広のためなら、何でもするって?」
安美が一歩退く。警戒が露骨に顔に出た。
「私はお金が欲しいだけ。綿子の治療のためよ。指輪が確定したら離婚する。鈴村さんとの生活の邪魔はしない」
「離婚?」
佑哉の低い声は、酒で掠れているのに冷えが混じる。
手が伸び、安美の手首を掴んだ。そのまま乱暴に引き寄せ、胸の中に押し込む。
「江原安美。離婚したら、陸田明広と仲良く暮らせると思ってるのか? 甘い。そんな都合よくいくわけないだろ」
力が強すぎて、安美は振りほどけない。息が詰まり、必死に身をよじる。
「川崎佑哉、離して! 何するつもり?」
「何をする?」
佑哉が見下ろす瞳は、濃く、粘つくほどの独占欲で満ちていた。
「決まってる――おまえを抱く」
