第9章
「……」
男のあまりに露骨な言葉に、江原安美は数秒固まってから我に返り、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「川崎佑哉……この、最低の変態!」
「動くな」
抵抗など、川崎佑哉の圧倒的な力の前では木の葉も同然だった。熱を帯びた掌が、薄い背中にぴたりと張りつく。
「川崎佑哉、目を覚まして! 私たち、もうとっくに形だけでしょう。こんなの、強引に押しつけるのと何が違うの? 訴えるよ?」
「訴える?」
彼は眉を上げ、ふっと笑った。
「好きにしろ」
江原安美は身を起こし、唇を噛んだまま、川崎佑哉が悠然と服を整えるのを見つめた。
「……おまえの妹、具合はどうだ」
その一言で、全身が強張る。
結婚して三年の妻にすら碌に関心を向けなかった男が、関係のない妹を気にかけるはずがない。今この場でわざわざ口にするのは――脅し。そうとしか思えなかった。
「白血病の治療は、金が湯水みたいに消えるらしいな。骨髄が見つからなきゃ、長くはもたない」
川崎佑哉の怠そうな声には、温度がない。
「おまえの『いい友達』の陸田明広が、その先の治療費まで払い続けてくれるのか? それとも、担保もなしに何百万も貸してもらえるくらい、深い仲なのか」
江原安美は下唇を噛みしめ、何も答えられなかった。脇に垂れた指先が、白くなる。
川崎佑哉は淡く一瞥すると、立ち上がって出ていこうとする。
その瞬間、江原安美は反射的に手を伸ばし、彼の服の裾をそっと掴んだ。
――お金が必要だ。妹のために。だから、飲み込むしかない。
「まだ告くちする気か?」
淡々とした声。
江原安美は屈辱を喉の奥へ押し込み、首を横に振った。
川崎佑哉の手が彼女の華奢な肩に置かれ、ゆっくりと滑る。首元をくすぐるように撫で、まるで小動物でも弄ぶみたいだった。
「江原安美。自分の立場、覚えておけ。離婚協議書にサインするまでは、おまえは川崎の奥さんだ」
指先が頸に触れ、ぞくりと背筋が粟立つ。
「他の男に色目を使うな。俺のことに口出しする資格もない」
灼けるように熱く、それでいて氷みたいに冷たい視線。胸が巨石で押し潰され、息が詰まる。
「……川崎の奥さん?」
目の奥が瞬く間に赤く滲む。涙が溜まり、きらりと光るのに、落ちない。落としたくない。
川崎佑哉はわずかに視線を落とし、面白がるように彼女を見た。――言え。続けろ、と。
江原安美は顎を上げる。
「その肩書きは、私にとって三年間の監禁だった。終わりのない恥辱だった」
震える声を、必死にまっすぐにする。
「私は三年、奥さんとしての分を守った。でも返ってきたのは、あなたと鈴村千雪が……私の目の前で甘い顔を見せ合うこと。私に、あなたたちの婚約指輪をデザインさせたこと。……心臓が抉られるみたいだった」
「それで?」
川崎佑哉の問いは淡々としていて、表情も冷え切っていた。
江原安美は涙を落とさないために、さらに顎を高く持ち上げた。惨めに見えるのだけは嫌だった。
「川崎佑哉、私たちはもうすぐ離婚する。この名ばかりの関係、長くはもたない」
「離婚?」
川崎佑哉が冷笑する。
「おまえが離婚したいと思ったら、できるとでも? 投資で稼ぐ力があるのか。今の暮らしを維持できるのか。江原綿子の治療に必要な医療のつてを、用意できるのか」
淡々と、突き刺すように続ける。
「仮に財産を少し分けたところで、その金に人脈や信用は付いてこない。おまえには、それがない」
不意打ちの鉄槌だった。
江原安美は唇を動かす。反論したい。けれど、言葉が一つも出てこない。
――そうだ。何もない。
三年前に嫁いでから、彼女は経済的な独立を失った。すべては川崎佑哉の施しの上で成り立っている。妹の命さえ、今はただ「借りて」いるだけ。
大きな無力感が全身を呑み込み、力が抜けていく。先ほどまでの抵抗など、跡形もなく。残ったのは、目の奥に張りついた悲しさと、底の見えない絶望。
川崎佑哉はその従順さを感じ取ったのか、目の奥の荒い色がわずかに薄れる。代わりに濃くなるのは、執着に似た独占欲だった。
彼は身を屈め、耳元へ熱い息を落とす。
「借りがあるなら、返せ。おまえがすべきことでな」
そう言うと、手が腰の脇をなぞり、ゆっくりと下へ滑っていく。露骨な侵略。指先の通った場所が、びくりと戦慄を呼んだ。
江原安美の身体が強張る。
その瞬間、小腹の奥に、微かな――けれど確かな鈍痛。
まだ形にもならない小さな命が、無言で訴えてくるみたいに。
はっと我に返り、瞳孔がきゅっと縮む。胸の奥から、激しい守りたい衝動が噴き上がった。
――この子に、何かあったらだめ。絶対に。
江原安美はありったけの力で川崎佑哉を押し返し、二歩退いて距離を取った。両腕で小腹を庇うように抱える。
自分の反応が強すぎたと気づき、引きつった笑みを作る。
「……今日、生理なの。だから、無理」
その言葉は冷水のように、川崎佑哉の熱を一気に冷ました。
彼は目を細め、鋭い視線で彼女を舐めるように観察する。青白い顔、張り詰めた身体、逃げる目――嘘か本当かを測っている。
「信じないなら……触って確かめてもいい。騙す必要なんてないし」
江原安美は見られるだけで肌が粟立つ。手のひらに冷たい汗が滲み、心臓が狂ったように脈打つ。バレるな、バレるな、と頭の中で叫びながら、それでも平然を装って視線を返した。
広いリビングに沈黙が伸びる。
壁の時計だけが、カチ、カチ、と乾いた音を刻む。その一つ一つが、江原安美の胸を叩いた。
「……都合のいいタイミングだな」
川崎佑哉はそれだけ言うと、ソファの外套を掴み、未練の欠片もなくドアを叩きつけて出ていった。
江原安美は、長く息を吐いた。膝が笑い、もう立っていられない。壁伝いにずるずると滑り落ち、そのまま床に座り込む。
堪え続けた涙が、ようやく溢れた。
膝を抱え、顔を埋める。肩が小刻みに、いや、激しく震える。
鈴村千雪と身体を重ねたことを思うだけで、吐き気がした。
彼女には生理的な潔癖がある。誰かと共有された男と、夫婦の形だけをなぞるなんて――できない。
どれほど泣いたのか。涙が枯れ、喉がひりつく頃、ようやく少し冷静さが戻ってきた。
江原安美は手の甲で頬を拭い、ゆっくりと顔を上げる。瞳の弱さと頼りなさが、細い決意に置き換わっていく。
立ち上がり、ふらつく足で二階へ。
パソコンを開き、これまでのデザイン画を、誰にも知られないように整理し始めた。分類し、まとめ、暗号化してUSBメモリにバックアップする。
終えると、手元の残金をかき集めて数える。
――このままじゃ、もっても少し。妹を治すには、まるで足りない。
また無力感が押し寄せ、頭がくらくらした。
それでも、綿子は待っている。自分が金を作って、命を繋がなければならない。
江原安美は唇を噛み、背筋を伸ばす。
彼女に残っているのは――お腹の子と、妹だけだった。
