第4章
悟視点
書斎は静まり返っていた。聞こえるのは書類をめくる音と、ペンが紙の上を走る音だけだ。俺は革張りの椅子に座り、会社の四半期報告書に目を通していたが、意識は机の端にある何かに何度も引き寄せられた。
それは、三人の家族が手を繋いでいる様子を、おぼつかない線で描いたクレヨン画だった。家、太陽、小さな花……典型的な子供の絵だ。右下には、子供っぽい字で「希美」とサインがあった。
その紙に触れようと手を伸ばした瞬間、不意にぼやけた映像が脳裏をよぎった。
「お父さん、じょうずに描けた?」
絵を掲げ、期待に満ちた光で瞳を輝かせる小さな女の子……。
針で刺されたような痛みが頭を貫いた。俺は思わず手を引っ込め、苦痛に額を押さえる。くそっ、この後遺症め……。八ヶ月前の交通事故以来、特定のことを思い出そうとすると、決まって耐え難い頭痛に襲われるのだ。
医者が言うには、外傷性脳損傷による選択的健忘症で、一部の記憶の断片がブロックされているらしい。玲奈が妻であること、希美が彼女の娘であること、一緒に暮らしていたことは覚えている……。だが、どうやって一緒になったのか、彼女たちにどんな感情を抱いていたのか――その記憶は霧に包まれ、どうしても思い出せない。
「どうしてこんなものを見ると頭が痛くなるんだ……?」俺は独りごちた。
「あなた、どうしたの?」
桃子がドアを開けて入ってきた。午後の陽光を浴びて、彼女の漆黒の髪が静かに艶を放っている。シャネルのベージュスーツを纏った姿は、まるで磁器人形のように優雅だった。俺の手にあった絵を見ると、彼女の表情がわずかに変わった。
「また、こんなものを」彼女は駆け寄ってくると、優しく、しかし有無を言わせぬ力強さで俺の手からその紙を取り上げた。「悟、お医者様も言っていたでしょう、こういうものが後遺症を悪化させるって。中村玲奈は当時、うちの家に入るために計画的に妊娠したの。そのせいであなたは大きな精神的ショックを受けたのよ」
桃子のことは覚えている。彼女は俺の高校時代の彼女で、事故後に俺の世話をするために海外から帰国した。美しかった高校時代、若々しい思い出は、はっきりと蘇る。
「計画的に妊娠?」俺はこめかみを押さえ、必死に記憶を辿る。結婚式のことは覚えている。妊娠したお腹を抱えた玲奈の姿も。だが、どうして彼女と関係を持ち、なぜ結婚したのか……その記憶は完全に抜け落ちていた。
桃子が後ろから優しく俺の肩を揉む。「事故に遭う前、あなたはよく愚痴をこぼしていたわ。玲奈は母親の未来そっくりで、いつもいろんな策略を巡らせて欲しいものを手に入れるって。それに、あの子……希美ちゃんは、あなたの子供ですらない可能性が高いのよ。よく考えてみて。あの子、あなたに似ている?」
「俺の娘じゃない?」その言葉に、息が詰まるほどの衝撃を受けた。必死に希美の顔を思い出そうとする――確かに……彼女は玲奈の方によく似ている。
「だから、あなたも彼女たちに何の愛着も感じないのよ」桃子はそう言って、絵を片付けた。「記憶を失っても、あなたの無意識があなたを守ろうとしているの」
俺は長い間、黙り込んでいた。確かに俺は玲奈と希美に対して冷淡で、いつも彼女たちを重荷に感じていた記憶がある。桃子の説明は、すべてに辻褄が合うように思えた……。だが、なぜか、何かが違うという感覚が拭えなかった。
「考えちゃだめよ」桃子は俺の唇に軽くキスをした。「無理に思い出そうとすると、もっと苦しくなるだけだから」
俺は頷いたが、その夜は何度も寝返りを打った。目を閉じると、あの記憶の断片が浮かんできて、眠りを妨げるのだ。
翌日の役員会議。財務部長が財務状況について報告していた。
「慈善基金プロジェクトの件ですが……中村玲奈様への生活費として、毎月七十五万円を口座に送金しております。この支出は……」
「待て」俺は冷たく遮った。「その支払いを即刻停止しろ」
会議室が静まり返り、役員たちが皆、驚いた顔で俺を見ていた。
「悟さん、これはご自身で承認された案件ですが……」財務部長が恐る恐る指摘する。
「それはまだ脳損傷から回復途中で、思考がはっきりしていなかった時の判断だ」俺の声は氷のように冷たかった。「今は正気だ」
桃子が満足げに頷いた。「悟はやっと目が覚めたのよ。中村玲奈は最初から東山家の財産目当てで彼に近づいたんですもの。離婚したのに、どうしてまだうちのお金を受け取る必要があるのかしら?」
「しかし、彼女は希美様のお母上でもありますから……」年配の役員が口を挟もうとする。
「希美は死んだ」俺の言葉は、冬の氷のように冷酷だった。「それに、あの子は俺の娘ですらなかった可能性が高い。他人の子供のために、これ以上金を払うつもりはない」
会議の後、桃子が俺の腕に絡んできた。「悟、あなたの銀行カードとクレジットカード、私が預かっておくわ。中村玲奈がしつこくあなたに付きまとわないようにね。事故の後遺症でまだ記憶も万全じゃないんだから、そういうことは私が管理した方が安全よ」
「わかった」俺はためらうことなく同意した。「そういうことは君に任せる。信用している」
だが、会議室を出ながら、心の内の声が問いかけてきた。俺は本当に、そこまで玲奈を憎んでいたのだろうか? なぜ、事故後初めて彼女に会った時、あんなにも複雑で、言葉にできない感情を抱いたのだろう?
俺は首を振り、考えすぎるなと自分に言い聞かせた。桃子が言うには、そういった混乱した感情は、ただの脳損傷の後遺症なのだと。
三日後、俺は脳損傷の経過観察のため、都心の病院へ向かった。神経科の診察室を出ると、医者は回復は順調だが、ブロックされた記憶の断片を無理に思い出そうとしないように、と改めて忠告した。新しい処方箋を持って薬局に向かって歩いていると、白衣を着た中年の医師が通り過ぎた。看護師が俺を「東山様」と呼ぶのを聞き、彼は足を止めた。
「東山さん?」彼は怪訝な顔で俺を見た。「玲奈さんのご家族の方ですか?」
俺は眉をひそめた。「元夫だが。何か問題でも?」
医師の顔に同情の色が浮かんだ。「なんてことだ、お気の毒に。末期の肺がん患者のご家族は、もっとそばにいてあげるべきですよ。一人で化学療法を受けるのは、あまりにも辛い……本当に、もう時間はあまり残されていないんですから」
「待て!」俺は衝撃のあまり彼の腕を掴んだ。「今、何と言った? 末期の肺がん?」
あり得ない……。玲奈は健康だったはずだ。事故後、彼女には冷たく接してきたが、病気だなんて話は一度も聞いたことがない。
医師は言い過ぎたことに気づき、慌てて手を振った。「申し訳ない、ご存知かと思って……患者のプライバシーを漏らすべきではなかった……」
「いつからだ? どのくらい悪いんだ?」俺の声は震えていた。
「そ、それは、これ以上は本当に言えません。詳しいことをお知りになりたいなら、担当医にお尋ねください」医師は足早に去って行った。
俺は廊下に立ち尽くし、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
家に戻ると、俺はすぐにリビングへ駆け込み、桃子を問い詰めた。「玲奈が病気だ。知っていたのか?」
桃子はソファでマニキュアを塗っていた。俺の言葉に、彼女の手がわずかに止まる。「病気? 何の病気?」
「末期の肺がんだ」俺は彼女の反応を注意深く見つめた。「医者が言うには、もう長くないそうだ」
桃子は、まったく意に介さない様子で軽く笑った。「悟、そんな馬鹿げた話を本気で信じるの? 同情を引くための見え透いた芝居に決まっているじゃない。事故で記憶が曖昧なあなたにつけ込んで、同情を得ようとしているのよ」
「芝居だと?」
「私たちがいずれ結婚するのを知って、末期がんをでっち上げたのよ」桃子はマニキュアを置き、その目に嘲りの色を浮かべた。「お金さえあれば、買収できない医者なんていないわ。計画的に妊娠できた女にとって、病気を偽ることくらい何でもないことよ」
俺はためらった。「だが、葬式の時、彼女はひどくやつれていたように見えたが……」
「娘が死んで、その上離婚のショックも受けたからよ」桃子は寄ってきて俺を抱きしめた。「悟、あなたは事故に遭ってから、優しすぎるの。彼女は、まさにそこを利用しているのよ」
俺は目を閉じ、心の中で激しく葛藤した。事故はあまりに多くの記憶を奪い、俺は自分の人生をまるで部外者のように眺めることしかできない。真実を教えてくれるのは、桃子しかいないのだ……。
「君の言う通りかもしれない」俺はついに折れた。
しかし、その夜は眠れなかった。床まである窓のそばに立ち、暗闇を見つめていると、頭の中に断片的な映像が何度もフラッシュバックした。
ある女性の、優しい微笑み……。
「悟、愛してる……」
ある少女の、銀の鈴のような笑い声……。
「お父さん、お父さんのために、一番きれいな常夜灯を作りたいの……」
これらの映像は頭痛を引き起こすと同時に、説明のつかない痛みと後悔で俺の心を締め付けた。だが、その記憶を掴もうとするたびに、それらは砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
桃子が後ろから俺を抱きしめ、耳元で囁いた。「考えちゃだめよ、あなた。無理に思い出そうとすると、脳損傷が悪化するだけってお医者様も言っていたわ。過去は過去よ。私たちは前を向かなきゃ」
だが俺は、初めて彼女の言葉に疑問を抱いた。
もし玲奈が本当にそれほど金に執着しているのなら、なぜ彼女の方から離婚を切り出したんだ? もし本当に芝居をしているのなら、なぜ治療を拒否するんだ? なぜ、彼女と希美に関わるものを見るたびに、俺の心は説明のつかない痛みに襲われるんだ?
これらの疑念が、種のように俺の心に根を下ろした。
俺は決意した――玲奈の本当の状況を、密かに調べることにする。事故は俺の記憶を奪ったが、真実を求める力まで奪うことはできない。
外の星空を見上げていると、ふと、遠くの、曖昧でぼんやりとした声が蘇った。
「悟、約束して。いつか全部思い出しても、私のこと、嫌いにならないで……」
これは誰の声だ? なぜこんなにも聞き覚えがあるのに、奇妙に聞こえるのだろう? なぜこの言葉は、俺の心をナイフで切り裂かれるような気持ちにさせるのだろう?






