第6章

翌朝午前十時、俺は総合病院のドアをくぐった。胸には、言いようのない不安が締め付けていた。

探偵から玲奈が本当に癌だと聞かされて以来、俺はろくに眠れていなかった。断片的な記憶が針のように思考を突き刺す。ある時はぼやけた笑顔、またある時は優しい声。だが、掴もうとするたびに、それらは霞のように消えてしまうのだ。

「斉藤先生にお会いしたいのですが」俺は腫瘍科の受付でそう告げた。

看護師が顔を上げた。「どなた様でしょうか?」

「東山悟です。少し……個人的なご相談がありまして」

二十分後、金縁の眼鏡をかけた中年の医師が診察室から姿を現した。斉藤先生は俺の顔を見るなり、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。

「東山様? やっと来てくださったんですね」その声には安堵の色が滲んでいた。「いつ玲奈さんのご家族がいらっしゃるかと思っておりました」

心拍数が一気に跳ね上がった。「先生、妻の……元妻の容態についてお聞かせください」

斉藤先生の表情が驚愕に変わった。「元奥様が癌であることを、本当にご存じないのですか? もう末期の状態なんですよ!」

その言葉は、まるで落雷のように俺を打ちのめした。頭に血が上るのを感じる。「どう……いうことですか?」

「末期の肺癌です。すでに転移も見られます」斉藤先生は信じられないといった様子で首を振った。「彼女は、一切の積極的な治療を拒否されています。経済的な事情かとも思いましたが……ご家族にはご自身の判断だと、そうおっしゃっていました」

足から力が抜け、俺は壁に寄りかかった。「そんな……ありえない……」

「もう一つ、非常に気になることがあるんです」斉藤先生は声を潜めた。「彼女は、生きる意志を完全に放棄してしまっているように見えます。この精神状態は、長期的な感情の抑制と関連があることが多い。東山様、ご家族として、もっと一緒に時間を過ごしてあげてください」

俺は立っているのがやっとだった。頭の中で何かが激しく衝突し、ある種の閉塞を突き破ろうとしている。ぼやけた映像が閃いた――病院の廊下に座る女。疲れ切った青白い顔。だが、俺の姿を見ると無理に笑顔を作る……。いつのことだ? なぜ俺にこんな記憶が?

俺は病院を飛び出し、車の中で思考を整理しようとした。気づけば、車は見覚えのある場所――希美が命を落とした事故現場の、昔の家のガレージへと向かっていた。

なぜここに来なければならなかったのか、自分でも分からなかった。ただ、何かに強く引き寄せられる感覚があった。

「東山さん?」年配の女性の声がした。

振り返ると、隣人の佐藤さんが買い物袋を提げてこちらへ歩いてくるところだった。

「佐藤さん」俺は会釈した。

老婆の目に同情の色が浮かんだ。「東山さん、やっとここに来る気になったんだね。あの日以来、希美ちゃんが言っていたことをずっと考えていたんだよ」

「彼女は……なんて?」声がわずかに震えた。

「『暗いのが怖いお父さんのために、一番明るい光を作ってあげるの』って、いつも言ってたわ」佐藤さんはため息をついた。「なんて優しい子だったんだろうね。お父さんが一生懸命働いているのを知っていて、いつもあなたを驚かせて喜ばせたいって思ってたのよ」

喉に何かが詰まったような感覚がした。暗いのが怖い? 俺がそんなことを言ったことがあっただろうか? だが、その言葉には奇妙な既視感があった。まるで本当にあったことのように……。

「本当に……彼女がそう言ってたんですか?」

「ええ、もちろんよ! それに、『お父さんはいつも帰りが遅いから。常夜灯があれば、暗闇で迷子にならないでしょ』って」老婆は首を振った。「かわいそうに。事故のあった日も、ここで小さな常夜灯を組み立てていたのよ……」

俺はガレージに駆け込み、何かに取り憑かれたようにあたりを探し回った。隅の方で、小さなピンク色の携帯電話を見つけた――希美の携帯だ。この携帯……なぜこれを見ただけで、こんなにも胸が痛むんだ?

震える手で録音データを再生すると、幼い声が流れ出した。

「お父さん、大好きだよ。もしお父さんが私のこと好きじゃなくても。お父さんがおうちに帰るとき迷子にならないように、一番明るい光になりたいの。お母さんがね、お父さんはすごく頑張ってるって言ってた。だから、世界で一番明るい小さな常夜灯を作ってあげたい。お父さん、私のこの大好き、ちゃんと届くといいな……」

俺はその場に崩れ落ちた。この声……この甘えるような幼い声……。突如、途切れた映像が稲妻のように脳裏を駆け巡った。よちよちと俺に歩み寄ってくる小さな女の子の姿、初めて『お父さん』と呼んでくれた時の笑顔、彼女が描いた、歪んだ家族の肖像画……。

だが、なぜこれらの記憶はこれほどまでにぼやけているのだろう? なぜ彼女を他人だと思い込んでいた? 桃子は俺の子ではないと言ったが、なぜ彼女の声を聞くとこれほど胸が痛むのか?

希美の無邪気な声と佐藤さんの言葉が頭の中で繰り返し響き渡り、俺は疑問だらけのまま今の新しい豪邸へと車を走らせた。答えが必要だった。桃子に説明を求めなければならなかった。

午後八時、俺は豪邸に踏み込んだ。桃子はソファに優雅に腰かけ、マニキュアを塗っていた。

「あなた、お帰りなさい」彼女は微笑みながら顔を上げた。「今日はどこへ行っていたの?」

「なぜ玲奈の病気を噓だって言ったんだ?」俺は彼女を睨みつけた。

桃子の手が止まり、マニキュアの筆が床に落ちた。「え? 彼女、本当に病気なの?」

「とぼけるな! 末期の肺癌だ!」俺は怒鳴った。「医者はもう助からないと言っていた!」

桃子はさっと立ち上がった。その目には一瞬動揺が走ったが、すぐに冷静さを取り戻した。「あなた、騙されちゃだめよ。病気を使ってあなたを取り戻そうっていう、彼女の哀れな芝居に決まってるって言ったじゃない!」

「哀れな芝居?」信じられない思いだった。「彼女は死にかけてるんだぞ!」

「考えてもみてよ。彼女が離婚を切り出して、あなたがそれに同意した後なんだから、他の手を使わなきゃならなかったのよ!」桃子は俺に歩み寄りながら、甲高い声になった。「ああいう女は、何だってするんだから!」

希美の録音と、あのぼやけた記憶の断片を思い出し、俺の中で怒りが込み上げてきた。「じゃあ希美も芝居だったのか?あの子はただ、俺のために常夜灯を作りたかっただけなんだぞ!」

桃子の顔色が一変した。「あの嫌な子供のことは話さないで!」

「なんだと?」俺の目に怒りの炎が燃え盛った。嫌な子供? 子供に対して、どうしてそんなことが言えるんだ?

自制心を失った桃子は、激しく叫んだ。「全部芝居よ! あなたに復讐するために、わざと希美を事故に遭わせたのよ! あの女が、あの子を殺したの!」

この一言が、最後の引き金になった。俺の頭を塞いでいた何かが緩み始め、さらに多くの記憶の断片が流れ込んできた。

――図書室で、穏やかに微笑む女。陽光が彼女の顔に降り注いでいる……。

――俺が病気の時、彼女は甲斐甲斐しく看病してくれた。その手のひらは温かく、柔らかかった……。

――妊娠した彼女が、母性の輝きに満ちた顔で、お腹をさすっている……。

――赤ん坊の産声と、涙を流しながらも至福の表情を浮かべる彼女……。

これらの映像はますます鮮明になっていくが、それでもパズルのピースのように断片的だった。俺は彼女を愛していたのか? 俺たちは本当に、幸せな時を過ごしたことがあったのか?

「もうやめろ!」俺は叫んだ。頭の中の美しい映像と、桃子の言葉があまりにも対照的だった。「いくつか、思い出し始めている……。俺たちは昔……俺は、彼女たちを愛していた……」

桃子の顔が青ざめた。「そんな……ありえない……あなたは記憶喪失なのよ……それは偽の記憶……」

「やめろ!」声が震えた。記憶はまだ不完全だが、何かが俺から隠されていたことは確かだった。「君は今まで、いくつの嘘をついてきたんだ?」

俺は背を向けて立ち去ろうとしたが、桃子が必死で俺の前に立ちはだかった。「彼女のところへ行ったら、一生後悔するわよ! あの女はもう死ぬの! あなたには何も変えられない!」

俺は彼女を突き飛ばした。俺の目には、紛れもない軽蔑の色が浮かんでいた。「もうすでに、一生後悔してるんだ! 俺たちの過去がどうであれ、俺は彼女たちを失った! すべてを失ったんだ!」

俺は豪邸を飛び出し、リビングに一人立ち尽くす桃子を残していった。

豪邸の中で、桃子は電話を手に取り、ある番号にかけた。その声は冷たく、悪意に満ちていた。

「予定を早めて。今夜決行するわ。あの女が二度と口を開けないようにして」

電話の向こうから、男の声が聞こえた。「了解しました。事故に見せかけます」

桃子は電話を切ると、窓の外の稲妻を見つめ、歪んだ笑みを浮かべた。「言うことを聞かないなら、私が非情になっても仕方ないわね。あの女が死ねば、あなたは私のものになる」

みすぼらしいアパートの一室で、玲奈は窓辺に力なく座り、小さな子猫を腕に抱いていた。彼女は外の嵐を眺めながら、危険が迫っていることには全く気づいていなかった。

彼女は優しく猫の毛を撫でながら、弱々しく言った。「ミカン、私ももうすぐ希美のところへ行くからね……いい子でいるんだよ……」

稲妻が、彼女の青白い顔を照らし出した。悟がこの最後の瞬間に償いをしようと、嵐の夜を必死に駆け抜けていることを、彼女は知る由もなかった。

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