第1章 誕生日当日、夫が浮気した
誕生日のその日、結城凝香は夫の紀藤瑛介が浮気していることを知った。
SNSを開けば、彼に関するニュースが画面いっぱいに流れてくる。
#紀藤グループ社長・紀藤瑛介 新進気鋭のバレリーナ葉月清奈と密会#
添えられていたのは高画質の写真が二枚。
一枚は五つ星の高級ホテル前。紀藤瑛介の黒いマイバッハから、白いカシミヤコートをまとった女が降りてくる姿。
もう一枚は、紀藤瑛介がその細い腰を抱き寄せ、二人でプレジデンシャルスイートへ入っていく瞬間だった。
結城凝香の指先が、かすかに震え始める。
コメント欄はすでに大荒れだった。
「紀藤社長と葉月清奈、お似合いすぎ! 葉月清奈のほうが結城凝香よりずっと綺麗じゃん」
「結城凝香って紀藤家が無理やり押しつけたって聞いた。社長は最初から愛してないから、公の場で紀藤夫人だって認めたこともないんでしょ」
「俺が社長でも葉月清奈を選ぶわ。結城凝香みたいな、家柄もなければ顔も大したことない女が、どうして釣り合うんだよ」
一つひとつが刃のように、凝香の胸を深くえぐった。
昨日の夜のことを思い出す。
誕生日を一緒に過ごしてほしいと、おそるおそる紀藤瑛介に尋ねた。
返ってきたのは、淡々としたひと言だけ。
「明日は大事な会議がある。ひとりで食べろ」
――なるほど。
その「大事な会議」とやらは、葉月清奈とホテルで逢瀬を重ねることだったのだ。
夜十時。
紀藤瑛介が帰宅した。
黒いコートを脱ぎ、使用人に渡す所作は相変わらず優雅で落ち着いている。今日一日を騒がせたトレンドなど、まるで意にも介していないようだった。
「お帰りなさい」
凝香が歩み寄る。
瑛介はちらりと彼女を見ただけで、平坦な声を落とした。
「……ああ」
そのまま書斎へ向かい、これ以上言葉を交わそうともしない。
「紀藤瑛介」
凝香が呼び止める。
彼は足を止め、わずかに振り返った。眉間に露骨な苛立ちが浮かぶ。
「何だ」
「今日のトレンド、見たの」
凝香は目を伏せ、指をきゅっと握りしめた。
瑛介は表情を変えない。やがて、かすかに笑う。
「それで?」
凝香は唇を噛んだ。声が震える。
「私はあなたの妻よ。……ひと言くらい、説明してくれてもいいんじゃないの?」
「説明することなどない」
言い捨てると、瑛介は再び階段へ向かう。
「瑛介、私、馬鹿じゃない」
凝香は思わず声を荒げた。
「ただ知りたいだけ。この三年間の結婚生活、あなたにとって私は何だったの?」
言いながら、目の縁がみるみる赤く染まっていく。喉の奥が詰まり、声が掠れた。
「俺を問いただしているのか?」
瑛介がゆっくり凝香へ歩み寄る。
そのとき、ふわりと淡い薔薇の香りが凝香を包んだ。
葉月清奈はメディアに『ステージの薔薇』と呼ばれている。
そして、彼女がいちばん好んで使う香水も薔薇の香りだった。
その匂いを嗅いだ瞬間、凝香の脳裏に、二人がホテルの部屋へ消えていく光景がありありと浮かぶ。
堪えきれず、涙がぽろりと落ちた。
だが、そんな凝香を見ても瑛介の表情は微動だにしない。
むしろ声はいっそう冷えきっていた。
「凝香、お前もわかっているはずだ。この結婚は最初から間違いだった。祖父がどうしてもと言わなければ、俺はお前を娶ったりしなかった」
それだけ言うと、彼は背を向けて階段へ向かった。
まるで、これ以上彼女を見ることすら時間の無駄だと言わんばかりに。
胸の奥を鈍器で殴られたような痛みが走る。
じわじわと、どこまでも広がっていく鈍痛。
――そんなこと、わかっている。
三年前、紀藤正博は重い病に伏し、最愛の孫である瑛介の結婚を見届けることを何よりの願いにしていた。
一方の凝香は、紀藤家に取り入ろうとした結城家によって押し込まれた存在にすぎない。
当時、瑛介は葉月清奈と交際していた。
才色兼備で、誰もが羨む恋人同士。仲も良かった。
だが紀藤正博はその娘を気に入らなかった。
計算高さが透けて見え、紀藤家の若奥様にはふさわしくないと判断したのだ。
凝香は初めて瑛介に会った日の光景を、今も鮮明に覚えている。
紀藤家の庭で、白い薔薇が咲き誇るそばに彼は立っていた。
白いシャツをまとい、彫りの深い横顔は陽光を受けて金の縁取りを施されたように見えた。
あの一瞬で、自分の心臓が狂ったように高鳴ったのを忘れられない。
この結婚のために、凝香は学業を諦め、友人とも距離を置き、紀藤夫人として完璧であろうと必死に努めた。
どうにかして瑛介に振り向いてもらおうと、あらゆる手を尽くしてきた。
それでも、彼の目にはすべてが無駄な足掻きにしか映らなかった。
瑛介は一度も彼女を公の場へ伴わず、友人に紹介することもない。
果ては紀藤グループの社内ですら、社長が既婚者だと知らない社員が大勢いる。
彼女は、忘れ去られた籠の鳥だった。
紀藤家という冷えきった檻に閉じ込められたままの。
凝香は魂を抜かれたように部屋へ戻った。
結婚してからずっと、彼女と瑛介は別々の部屋で眠っている。
彼は一度たりとも凝香に触れようとしない。
まるで心の底から嫌悪しているかのように。
その夜、凝香は一睡もできなかった。
涙で枕を濡らし、夜が白み始めたころになって、ようやくうとうとと眠りに落ちる。
だが、どれほども経たないうちに、階下からざわめきが聞こえてきた。
この時間なら、瑛介はもう会社へ行っているはずだ。
では、誰が――。
重い身体を引きずるように階段を下りると、ブランド物のスーツを着た女が、ソファに優雅に腰かけていた。
使用人が淹れたばかりのコーヒーを手にしている。
一目でわかった。
葉月清奈だ。
階段口に立つ凝香を見上げたその美しい瞳に、挑発の色がかすかによぎる。
「結城さん、ですよね?」
清奈は微笑みながら凝香のそばまで歩み寄った。
「昨日のことで、ちゃんと謝っておこうと思って来たんです。結城さん、きっとお怒りになりましたよね」
その謝罪には欠片ほどの誠意もない。
むしろ見せつけるために来たとしか思えなかった。
凝香は目を閉じ、深く息を吸う。
再び目を開けたとき、その瞳はすでに死んだように冷えきっていた。
「必要ないわ。ここは私の家よ。出ていって」
清奈はハンドバッグから書類袋を取り出し、差し出した。
「昨日、お誕生日だったとうかがったので。プレゼントを用意したんです。受け取ってください」
凝香が袋を開く。
中に入っていたのは妊娠検査の報告書だった。
葉月清奈のもの。
妊娠六週。
凝香の呼吸がぴたりと止まる。
指先がまた小さく震えた。
「気に入りました?」
清奈が顔を寄せてくる。
その声は地の底から響くように冷たかった。
「結城凝香、たとえ紀藤瑛介に嫁いだとしても、あの人の心にはずっと私しかいないの」
胸の奥がすうっと冷えていく。
だが凝香は、逆に唇の端をつり上げた。
「妊娠したから何? 紀藤瑛介の妻は私よ。あなたの子供は、永遠に隠し子でしかないわ」
「あなた……!」
清奈はかっとなり、手を振り上げた。
だが凝香はその手を受け止め、逆に強く払いのける。
そして使用人へ冷然と言い放った。
「お客様をお見送りして」
そのまま振り返りもせず、背後の罵声など意に介さないまま立ち去った。
いつかこういう日が来ることは、わかっていた。
それでも凝香は欲をかいてしまったのだ。
三年間尽くせば、たとえ犬だって情は湧くはずだと。
――でも、違った。
瑛介の心の中で、自分は何者でもなかった。
その夜、瑛介が戻ってきたのは遅くなってからだった。
薄暗いリビングで、凝香はひとり座り込んでいた。焦点の合わない目で、ただぼんやりと前を見つめている。
瑛介はネクタイを緩め、眉をひそめた。
「どうして電気もつけない」
「今日、葉月清奈が来たの」
凝香は低い声で言った。
「妊娠したって」
瑛介の動きが止まる。
彼は目を上げ、凝香を見た。その視線はいっそう冷たかった。
「それで? お前は俺のことにまで口を出すつもりか」
「まさか」
彼の皮肉も嘲りも、もう慣れきっている。
ただ、ひどく疲れていた。
凝香は静かに告げる。
「紀藤瑛介、私たち……離婚しましょう」
