第10章 この結婚は、必ず離婚する

翌日、結城凝香のもとに一本の電話が入った。相手は紀藤正博だった。

重い病で入院したから、見舞いに来てほしいという。

正博は、凝香に対して普段から悪い態度を取ったことがない。そもそも彼女と紀藤瑛介の縁談を、強く推し進めたのも正博だ。瑛介との間に挟まれても、正博だけはずっと凝香の味方でいてくれた。

だから凝香は、病院へ向かうことにした。

元気なときは年齢を感じさせないほど矍鑠としていた人が、ひとたび病に倒れると、みるみる覇気を失う。

病室のベッドに横たわる紀藤正博は、別人みたいに弱って見えた。精気が、ごっそり抜け落ちたように。

凝香は持参した果物を使用人に渡し、花をベッド脇の花瓶に生ける。そうしてから椅子に腰を下ろし、柔らかく尋ねた。

「おじいさま、どうして急にこんなに……。お医者さまは、何の病気だと?」

凝香の顔を見た途端、正博の目に少し光が戻る。半身を起こしていた彼は、そのまましっかりと身を起こした。

「凝香が来てくれたか。わしはもう歳じゃ。昔からの持病が出ただけだよ。人間、誰でもこういう時は来る」

口ぶりは達観していた。

この歳まで生きたのだから十分だ、という諦観。

ただひとつ心残りがあるとしたら――瑛介と凝香の子を見られなかったこと。ひ孫を抱けなかったこと。

正博が凝香をどれほど気に入っているかは、彼女にもわかっていた。でなければ、あれほど必死に二人を結婚させたりしない。

それでも瑛介は凝香を振り向かず、葉月清奈にばかり執着する。正博には、それがどうしても理解できないのだろう。

離婚の話も、正博の耳には届いている。そして言い出したのが凝香だということも。

理解はできる。だが、手放したくない。

瑛介はいずれ気づく――そう信じて、なお引き留めたいのだ。

凝香は眉を寄せ、少しだけ叱るように見た。

「おじいさま、何をおっしゃるんですか。どこが『歳』なんです。いつもお元気じゃないですか。きっと長生きなさいます」

正博は、慈しむような目を凝香に向けた。

――この子が孫娘だったなら、どれほどよかっただろう。そうすれば、引き留める必要すらなかったのに。

変わらないかもしれないとわかっていても、最後にもう一度だけ、頼みたかった。

「凝香……瑛介とは、本当にやり直せんのか。あいつは人を見る目がない。葉月清奈の本性も見抜けておらん。お前への扱いも酷すぎる。わしが叱ってやるから……」

凝香の表情は微動だにしない。

正博は胸の奥で、静かに息を吐いた。

「もう一度だけ、瑛介に機会をやってくれんか。もし今回も、お前とまともに向き合わず、目に入るのが葉月の女だけなら……そのときは、もう二度と止めん」

三年間の記憶が、凝香の中を淡々と流れていく。

失望は一瞬で生まれるものじゃない。

少しずつ、少しずつ積み重なって、戻れないところまで人を運ぶ。

凝香は何度も機会を与えた。歩み寄ろうともした。

赤の他人みたいな夫婦関係を、ちゃんとした夫婦に変えたかった。

けれど、瑛介は一度も受け取らなかった。

最初から嫌悪されていた。それでも当初は、まだ体裁だけは保っていた。

今は、その体裁すらない。態度は何ひとつ変わらない。

続けられるはずがない。

続けたところで、良い結末なんてない。

離婚は衝動じゃない。考え抜いた末の決断だ。

凝香は手を伸ばし、正博の手をそっと握った。真っすぐに見つめて、静かに言う。

「おじいさま、わかっているでしょう。瑛介が私に気持ちを持っていないことは。三年あっても、何ひとつ変わりませんでした。このまま続けても、苦しいだけです」

正博は小さく息を吐く。

結婚さえすれば、瑛介も凝香の良さに気づくはずだ――そんな期待は、ただの願望だった。

「おじいさま」

凝香は言葉を重ねた。声は柔らかいのに、芯が揺るがない。

「離婚は、私にとっても瑛介にとっても、そのほうがいいんです。ちゃんと考えて出した結論です。一時の感情じゃありません。だから、もう引き留めないでください」

正博は理解した。

これ以上言っても、離婚は止まらない。

無理に押さえつければ形だけの結婚を保てても、関係はもっと壊れる。

愛情もなく、未来も見えない結婚なら、別れたほうがいい。

「……わしが間違っとった」

正博は凝香の手の甲を、ぽん、と叩いた。声には深い悔いがにじむ。

「最初から、お前たちを一緒にするべきではなかったのかもしれん。瑛介が、お前の三年を無駄にした」

凝香は首を横に振る。

「おじいさま、無駄だったとは思いません。結婚を決めたのは私ですし……あの頃は、夫婦になれるって本気で思っていました。瑛介が、いつか私のために変わってくれるかもしれないって」

尽くした。努力した。愛した。

後悔はない。ただ、ここで終わりにするだけ。

これ以上、自分の気持ちを合わない相手に注ぎ続けない――それだけだ。

――そしてその会話を、病室の外で紀藤瑛介が聞いていた。

正博が凝香を引き留めている最中、瑛介はちょうど病室の前に来ていた。だが扉を開けず、足を止める。

凝香が本気なのか、それとも駆け引きなのか。それを知りたかった。

凝香の答えを聞いた瞬間、瑛介はようやく認めざるを得なくなった。

凝香は本気で離婚するつもりだ。駆け引きなんかじゃない。自分の勘違いだった。

本来なら、嬉しいはずだった。

煩わしい結婚が終わるのだから。

なのに、胸に湧いたのは解放感ではなく、埋めようのない空虚さだった。

昨夜の、あの息を呑むほどの凝香の姿まで脳裏に浮かんで、なぜか――彼女を知りたい、という衝動が走る。

凝香が正博ともう少し話したあと、席を立つ気配がした。

瑛介はとっさに身を翻し、隣の病室へ身を隠す。

今は顔を合わせたくない。盗み聞きをしていたと知られるのも嫌だった。

凝香が去ったあと、瑛介はようやく正博の病室へ入った。

ついさっき横になったばかりの正博は、瑛介の顔を見るなり怒りが燃え上がる。勢いよく身体を起こし、怒鳴りつけた。

「何しに来た! お前の顔など見たくもない! 出ていけ!」

病人とは思えない剣幕だった。

瑛介は眉を寄せながらも、声を落として宥める。

「じいさん、落ち着いてください。医者にも怒るなと言われてるだろ」

「よく言う! お前は『処理する』と言ったではないか! 結果はどうだ、凝香に離婚を切り出されておる!」

正博は鼻を鳴らし、容赦なく続ける。

「いいか。たとえ離婚したとしても、葉月とかいう女を紀藤家へ入れることはない!」

瑛介には理解できなかった。

なぜ正博はそこまで葉月清奈を嫌うのか。彼女の何がそんなに悪いのか。

無力感と苛立ちを押し隠し、瑛介は理屈で返す。

「そもそも俺たちには感情なんてなかった。結城家が恩を盾にしたから、俺は結城凝香と結婚したんだ。今さら離婚して、何が悪い」

正博は、言葉を重ねても無駄だと悟ったように目を伏せる。

話せば話すほど、怒りで身体に障るだけだ。

「好きにしろ」

低く、重い声。

「だが覚えておけ。いつか必ず、お前は後悔する日が来る」

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