第14章 酒の勢いで本音を吐く、私は手を放して去る
しばらくの間、葉月清奈が紀藤瑛介に連絡を入れるたび、あからさまなよそよそしさと上辺だけの対応を感じるようになっていた。
会おうと誘っても、返ってくるのは決まって「仕事が立て込んでいる」のひと言。結局、一度として顔を合わせることはできなかった。
葉月清奈の胸に、またしても危機感がむくむくと膨らむ。
紀藤瑛介が急に冷たくなったのには、きっと理由がある。
けれど、その理由を確かめることはできないし、怖くてしたくもなかった。問いただせば、ますます彼に距離を置かれるかもしれない。何より、もし答えが自分の耐えられないものだったら――そう思うと、踏み込む勇気が出なかった。
十中八九、結城凝香が絡んでいる。
あれほど心も時間も注いできたのに、このまま何ひとつ得られず終わるなんて、そんなのは嫌だった。
葉月清奈は胸の内で静かに策を巡らせる。
どうにかしなければならない。紀藤瑛介の態度を、以前のように戻さなければ。
夕暮れが近づいたころ、紀藤瑛介のもとへ葉月清奈から電話が入った。
「瑛介、今夜、一緒に食事できない? もう何日も会ってないもの」
やわらかな声の奥に、かすかな期待がにじむ。
ここ数日、意識して葉月清奈を避けていたのは事実だった。紀藤瑛介は一瞬、承諾しかける。だが、先日の一件が頭をよぎった途端、その気はすっと失せた。
「最近、会社のほうが立て込んでるんだ。今夜も会議が入ってる。また今度にしてくれ」
また、断られた。
葉月清奈の顔色がみるみる悪くなる。とはいえ、それを表に出すわけにはいかない。紀藤瑛介の前での自分は、いつだって優しくて気遣いのできる女でなければならなかった。
「……わかったわ。お仕事の邪魔してごめんなさい。あまり遅くまで無理しないでね。体を大事にして」
落胆を押し殺した声が、スマホ越しに届く。
通話を切ったあとも、紀藤瑛介はそのことを特に気に留めなかった。
そのまま何事もなかったように、手元の仕事へ戻る。
別に、付き合い始めたばかりの恋人同士でもあるまいし、毎日会わなければならないわけでも、延々と電話を続けなければならないわけでもない。
長く一緒にいれば、互いに仕事もある。数日会わないことも、もっと長く連絡が途切れることも、珍しくはなかった。
やがて一通り書類にサインを終え、少し休もうかと思ったところで、秘書が執務室に入ってきた。
何か言いたげなくせに言い出せない様子に、紀藤瑛介は眉をひそめる。
「何だ。用があるならはっきり言え」
「紀藤社長……先ほど連絡がありまして、葉月さんがバーでお酒を飲んでいて、その、かなり酔っておられるそうです……」
言い終えるなり、秘書はさっと視線を落とした。紀藤瑛介の顔を見るのが怖かったのだ。
紀藤瑛介の眉間の皺が、さらに深くなる。
理解できなかった。
葉月清奈は身重だ。それなのに酒を飲みに行き、しかも泥酔するなんて。自分の体にも子供にも良くないことくらい、わからないはずがない。
「どこのバーだ」
そう言って立ち上がる。
今、自分が葉月清奈にどういう感情を抱いていようと、彼女が酔い潰れているなら放ってはおけない。酔った女がひとりでバーにいるなど、危なすぎる。
秘書は慌てて店の住所を差し出した。
紀藤瑛介はすぐに車を出し、ほどなくして葉月清奈のいるバーへ着いた。
店内では、葉月清奈がまだ酒をあおっていた。
グラスを口に運ぶたび、まるで水でも飲むように一気に空けていく。
そんな彼女を、前から値踏みするように眺めていた男がいた。
ひとりきりで、しかも明らかにやけ酒。しかも美人だ。
こういうときに声をかけずして、いつかけるのか。
二人組の男が、葉月清奈の前へにじり寄る。
そのうちの一人が、獲物を前にしたような目で笑った。
「お嬢さん、なんだかずいぶん落ち込んでいるみたいだね。よかったら、俺たちが付き合おうか?」
葉月清奈は顔を上げ、二人を見る。
期待していた相手ではなかった。しかも、自分をその場限りの女として見ているのがありありとわかる。
彼女は眉を寄せ、容赦なく言い放った。
「結構よ。ひとりで十分だから」
目の前の獲物を、そう簡単に諦めるものか。
男たちはさらに距離を詰める。
「まあまあ、そんなつれないこと言わないでさ。ひとりで飲むより、何人かで飲んだほうが楽しいだろ? 絶対、気分よくさせてやるから」
「向こうへ行って。要らないって言ってるでしょ」
もともと気分は最悪だったのだ。そこへしつこく絡まれ、葉月清奈の声音にも苛立ちがにじむ。
露骨に邪険にされ、男たちの顔つきも険しくなった。
もう十分酔っている女だ。なら、遠慮する必要もない――そう考えたのだろう。片方がそのまま葉月清奈へ手を伸ばした。
その手が彼女の腕を掴みかけた、まさにその瞬間。
横から伸びてきた別の手が、男の腕をがしりと掴んだ。
紀藤瑛介だった。
間一髪だった。もし到着が少しでも遅れていたら、何が起きていたかわからない。
「何しやがる」
男は腕を振りほどこうとして果たせず、顔をしかめて怒鳴る。
紀藤瑛介はその手を乱暴に払いのけた。
「それはこっちの台詞だ。何をする気だった」
葉月清奈は紀藤瑛介の姿を認めた途端、ほっとしたように彼の胸へ身を寄せた。
潤んだ目で見上げ、酔いに滲んだ声でつぶやく。
「瑛介……遅いじゃない……」
その様子を見て、男もようやく事情を察したらしい。紀藤瑛介の上質なスーツに、その背後に控える秘書の姿まで目に入って、態度をころりと変えた。
「いや、これは誤解です。彼女、かなり酔ってたんで、転ばないよう支えようとしただけでして。お連れの方がいるなら安心です。お邪魔しました」
へらへらと笑いながらそう言い、連れを引っ張ってそそくさと去っていく。
紀藤瑛介に目をつけられでもしたら面倒だと判断したのだろう。
相手が引いた以上、紀藤瑛介も深追いはしなかった。
葉月清奈がまた口元へ運ぼうとしたグラスを取り上げてカウンターへ置き、そのまま彼女を抱き上げるようにしてバーを出る。
その間も葉月清奈は「まだ飲める」「酔ってない」とむにゃむにゃ言い続けていた。
家まで送り届けたあと、紀藤瑛介はそのまま帰るつもりでいた。
ところが葉月清奈は、背後から彼にぎゅっと抱きついてくる。
「少しだけ……そばにいて。これで最後にするから。もう二度と、あなたを困らせない……」
声には、すがるような寂しさと未練が滲んでいた。
紀藤瑛介は小さく息をつく。
振り返ると、ふらつく彼女を抱え直した。これではまともに立ってさえいられない。とりあえず寝室まで運ぶしかない。
葉月清奈は彼の首にしがみついたまま、何の前触れもなく涙をこぼした。
「瑛介……私、本当にあなたを愛してるの……でも、あなたはもう結婚してる。これ以上縋りついたって……あなたにも、結城さんにも、私にもよくない……」
ぽろぽろと涙を零しながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「もう決めたの……子供を連れて、私は離れる。だから……今夜だけ……もう一度だけ、そばにいて……だめ……?」
そう言って、彼女の手から力が抜けた。
紀藤瑛介はそっと彼女をベッドへ横たえる。
胸の奥に、鈍い罪悪感がせり上がった。
確かに、彼女が以前したことは褒められたものではない。
それでも、彼女はただ自分と一緒にいたかっただけなのだ。
もし自分が結城凝香と結婚していなければ、葉月清奈こそが妻になっていたはずだった。
紀藤瑛介は、なおも何かをつぶやき続ける葉月清奈を見下ろし、結局その夜は彼女のそばに残ることを選んだ。
翌朝、会社に着くなり、秘書が結城凝香と松崎拓海の提携について調べた報告書を持ってきた。
目を通した紀藤瑛介は、ようやく腑に落ちたように目を細める。
「……なるほどな。松崎拓海の狙いはそこか」
結城凝香がRubyと繋がりを持っている。
松崎拓海は、その結城凝香を通してRubyに接触しようとしているのだ。
事情がわかった以上、松崎拓海だけに得をさせる理由はない。
紀藤瑛介はすぐに結城凝香へ連絡を入れ、株式譲渡の詳細について話したいと持ちかけた。
それが自分の利益に直結する話である以上、結城凝香も断る理由はない。
今回、二人が顔を合わせたのはイタリアンレストランだった。
互いに無駄な挨拶を交わす気もない。
席に着くなり、結城凝香が本題を切り出す。
「私に15%の株式を譲る件、了承したのね?」
「俺たち、話すことはそれだけか?」
紀藤瑛介は一度言葉を切り、それからどこか懇願するような目で彼女を見た。
「頼む。力を貸してくれないか。Rubyに会いたいんだ。直接、協業の話をしたい」
結城凝香は唇の端をわずかに持ち上げ、紀藤瑛介を見つめ返す。
自分の夫は、まだ知らない。
いま会いたがっているそのRubyが――
この自分、結城凝香だということを。
