第2章 紀藤社長はあの方面が駄目だ
紀藤瑛介は言葉を失った。表情が、はっきり揺れる。
「……何だって?」
信じられない、とでも言うような声。
「離婚しましょう」
結城凝香は顔を上げ、まっすぐ彼の瞳を射抜いた。
「あなた、葉月清奈との子どもまでいるんでしょう。私が席を空けずにここに居座って、何の意味があるの?」
紀藤瑛介はしばらく凝香を見つめ、ふっと笑った。
「凝香、駆け引きのつもりか。――紀藤家の栄華を、手放せるのか?」
「手放せないわ。だから、紀藤グループの株を15%ちょうだい」
結城凝香の声は驚くほど淡々としていた。
彼の中で自分が「財産目当てで嫁いだ女」なら、それでいい。ならば、その通りに振る舞ってやるだけ。
紀藤瑛介が眉をひそめ、何か言いかけた、そのとき――テーブルのスマホがぶるる、と震えた。
結城凝香がちらりと見る。画面には葉月清奈の名。
紀藤瑛介が出ると、声色が露骨に柔らぐ。
「どうした?」
「瑛介……ホテルにひとりだと退屈なの。こっち来て、少しだけ一緒にいてくれない?」
甘えた女の声が、静かな部屋の空気にやけにくっきり響いた。
結城凝香の胸の痛みは、もうとっくに麻痺へ変わっている。
紀藤瑛介は凝香を一瞥し、声を落とした。
「わかった。すぐ行く」
通話を切り、コートに袖を通す。
彼が凝香のそばで一瞬だけ足を止めたとき、彼女は淡々と言った。
「行けばいいわ」
紀藤瑛介はわずかに眉を寄せたが、何も言わず、大股で出ていった。
扉が閉まったあと、結城凝香は寝室へ戻る。クローゼットを開くと、片側には紀藤瑛介のスーツとシャツ。もう片側には、彼が買い与えたブランドの服とバッグがずらりと並んでいた。
瑛介は一度たりとも、彼女が何を好きか尋ねなかった。
買ってくるのはいつも、葉月清奈が好みそうなテイストばかりで、決まってこう言う。
――これが似合う。
違う。
自分ではなく、葉月清奈に、だ。
結城凝香はそれらをまとめて写真に撮り、中古販売サイトへ出品した。
自分はシンプルな白いTシャツに着替え、キャリーケースを引いて寝室を出る。
離婚を決めた以上、ここに残る理由はない。
紀藤家を出た彼女はタクシーを拾い、法律事務所へ向かった。
高橋弁護士は離婚の申し出を聞き終えると、すぐに離婚協議書を作成し、差し出した。
「紀藤夫人、ご確認ください。追記したい条件があれば」
「ありません」
結城凝香はペンを取り、署名欄に自分の名を書き込む。
「ついでに紀藤瑛介にも催促して。早く署名するように」
立ち上がり、帰ろうとした、その瞬間。
高橋弁護士の携帯が鳴った。
応答した彼の顔色が、みるみる重くなる。
「紀藤夫人、少々お待ちください」
電話を切ると、複雑そうに言った。
「下に記者が大勢集まっています。今日こちらへ離婚協議書に署名しに来たという情報が、どこかから漏れたようです。身を隠されたほうが……」
結城凝香は窓辺へ歩み寄り、下を見下ろした。
ビルの入口に、案の定、数十人の記者が押し寄せている。
「どうして隠れる必要があるんですか?」
振り返った声は静かだった。
「私が紀藤瑛介と離婚するのは事実です。隠してはいけないことなんて何もない」
「ですが、紀藤社長のほうが……」
「もう夫じゃありません。あの人がどう思おうと、私には関係ないわ」
バッグを手に、ドアへ向かう。
事務所の外へ出た瞬間、記者たちが一斉に群がってきた。フラッシュがばちばちと顔を照らす。
「紀藤夫人、本日法律事務所に来られたのは、紀藤社長との離婚のためですか?」
「離婚の原因は葉月清奈さんですか? 紀藤社長は本当に不倫されていたんでしょうか?」
「葉月清奈さんがSNSにダイヤの指輪をした写真を投稿しましたが、紀藤社長がすでにプロポーズされたということでしょうか?」
飛んでくる質問は鋭く、容赦がない。
結城凝香は足を止め、ひとつ深呼吸してから、まっすぐカメラを見据えた。
「まず、もう紀藤夫人とは呼ばないでください」
声は冷静で澄んでいた。
「次に、紀藤さんの私生活について、私に口を挟む権利はありません。評価する立場でもない。私たちは円満に別れるだけです」
「では結城さん、離婚の理由は何ですか? やはり葉月清奈さんの介入が原因なのでしょうか?」
女性記者がマイクを突き出し、食い下がる。
結城凝香は数秒、沈黙した。
「離婚の理由は……」
ゆっくり口を開き、ふっと微笑む。
「紀藤さんが、私の求めるものを満たせなかったからです」
その場の空気が一瞬で固まった。
ざわっ、と小さく波が立つ。
「その『求めるもの』とは、具体的には?」
「申し訳ありませんが、お答えできません」
結城凝香はサングラスをかけ、それ以上は一切答えず、警備員に守られながら人波を抜けて車へ乗り込んだ。
二時間後、新たなトレンドがSNSに突如浮上する。
#紀藤グループ社長 元妻に男性機能を疑われる#
#紀藤瑛介 妻の欲求を満たせず離婚#
コメント欄は再び爆発した。
「うそでしょ、紀藤社長ってイケメンで金持ちなのに、そっちはダメなの?」
「結城凝香、言うことえぐすぎる! 社長、これからどうやって人前に出るんだよ」
「じゃああの日、葉月清奈とホテルに行ったってことは、まさか……」
そのころ、紀藤グループ社長室。
紀藤瑛介は手にしていたタブレットを壁に叩きつけた。画面が一瞬で砕け散る。
すぐに結城凝香へ電話をかける。だが、すでにブロックされていた。
「凝香……あいつ、気でも狂ったのか……!」
歯を食いしばった目は血走っている。
「今すぐ広報に連絡しろ。トレンドを全部下げさせろ」
傍らの秘書は息を呑み、声も細い。
「紀藤社長、各メディアにはすでに連絡を入れております。ただ、拡散が広範囲に及んでいて、おそらく……」
「高橋弁護士に電話をつなげ!」
すぐに回線がつながった。
「紀藤社長、結城さんには連絡を取ったのですが……その……」
「何と言った」
紀藤瑛介が低く問う。
「『記者がどう書くかは彼らの自由です。私にはどうにもできません』と……」
紀藤瑛介は拳を握りしめた。関節が白くなる。
「今どこにいる」
「それが、はっきりとは……」
「探せ。今日中に、必ず俺の前に連れてこい!」
通話を切ると、紀藤瑛介は大きな窓の前へ歩み寄った。怒りで胸が大きく上下する。
あの女――まさか本気で、ここまでやるとは。
彼の記憶の中の結城凝香は、いつだっておとなしく、従順だった。
大声で言い返すことすら、ほとんどない。
なのに、一夜にして別人のように変わってしまった。
その変化が、ひどく癇に障る。
なぜこんなにも苛立つのか、自分でもわからないまま。
そこへ、また電話が鳴った。葉月清奈からだ。
「瑛介、トレンド見たわ……」
やさしさと心配を滲ませた声。
「結城さん、ひどすぎる。どうしてあんなこと言えるの? 大丈夫? 必要なら私がそっちへ行くけど……」
「いや、いい」
紀藤瑛介には、もうそんな気分は残っていなかった。
「今は記者が張ってる。しばらくは会わないほうがいい」
「でも……」
葉月清奈が何か言いかけた、そのとき。
高橋弁護士から、結城凝香の住所が送られてきた。
