第3章 紀藤瑛介、嫉妬してるの?
「清奈、こっちは急ぎの用ができた。またあとで」
通話を切ると、紀藤瑛介は秘書から送られてきた住所に目を落とし、車のキーを掴んで執務室を大股で出た。
だが、扉を出たところで、ちょうど自分を訪ねてきた紀藤正博と鉢合わせした。
「見てみろ、お前のやったことを!」
紀藤正博は経済誌を瑛介の胸元へ叩きつけた。怒りで肩が大きく上下している。
「何度言えばわかる! あの葉月の女には近づくなと、あれほど言っただろうが! それがどうだ、今度はでかでかと一面だ! 世間が紀藤家をどう見ると思っとる! 凝香がどう思うか、考えたことはないのか!」
「おじいさま、落ち着いてください」
紀藤瑛介は眉を寄せ、疲れをにじませた声で言った。
「この件は俺がきちんと処理します」
「お前に何が処理できる!」
紀藤正博の声はいっそう厳しさを増す。
「今すぐ記者会見を開け。凝香が紀藤夫人だと公に認めろ。そしてあの葉月とかいう女とはきっぱり縁を切れ!」
紀藤瑛介は薄い唇を引き結んだ。顔色は沈み、どう見ても気が進まない様子だった。
「聞こえとらんのか!」
返事をしない孫に、紀藤正博はさらに声を荒らげる。
「あの葉月の女の何がそんなにいい! どうしてそこまでたぶらかされる!」
数秒の沈黙のあと、紀藤瑛介は低く言った。
「清奈は自立していて、才能もある。でも結城凝香は、毎日洗濯して料理しているだけだ。あんな女を妻にしても、家政婦を雇うのと何が違う」
「馬鹿者が!」
紀藤正博は首を振り、深くため息をついた。
「当時、凝香の祖父がわしを助けてくれなければ、今の紀藤家はなかったんだぞ!」
「結城家が昔、紀藤家を助けてくれたのは事実です。でもその後、紀藤家が結城家に与えてきた便宜で、その恩はとっくに返し終えています」
紀藤瑛介は理を立てるように言い返した。
「おじいさま、俺たちはもう何も負っていません」
「お前……っ、ごほっ、ごほっ……!」
紀藤正博は激しく咳き込んだ。
「おじいさま!」
紀藤瑛介の表情がさっと変わる。駆け寄ろうとしたが、紀藤正博は腕を振って彼を突き放した。
「今すぐ凝香を連れ戻してこい!」
こめかみを押さえながら、紀藤正博は怒鳴った。
「できんというなら、もうわしを祖父と思うな!」
そのころ、結城凝香は親友の小林智美と離婚祝いパーティーに顔を出していた。
シンプルな黒のキャミソールドレス。ゆるく巻いた長い髪を下ろし、淡いメイクを施した彼女は、上品さの中にどこか近寄りがたい美しさをまとっている。
「凝香、あんた最高すぎる!」
小林智美はスマホを握りしめ、興奮気味に声を上げた。
「見てよ、このコメント! 今みんな、紀藤瑛介って本当にそっちダメなのかって話ばっかりで、もう誰もあんたが釣り合わないなんて言ってない!」
結城凝香はウイスキーグラスを手に、冷ややかに唇の端を上げた。
「事実を言っただけよ」
「そのくらいして当然よ。思い知らせてやらなきゃ。あんたが簡単に傷つく相手じゃないって」
小林智美は憤然と言う。
「どうせなら葉月清奈が妊娠してることも記者にぶちまければよかったのに」
結城凝香は思わず噴き出した。
「そんなこと言ったら、記者が今みたいに面白く書いてくれると思う?」
小林智美は一瞬きょとんとしたあと、すぐに親指を立てた。
「やっぱりあんた、頭回るわ!」
そのとき、グレーのスーツをまとった端正な男がこちらへ歩いてきた。
「結城凝香さん、ですよね? 動画で拝見するより、ずっとお綺麗だ」
男は軽く一礼し、彼女へ手を差し出す。笑みは穏やかで、礼儀正しい。
「もしよろしければ、一曲お相手いただけませんか」
ちょうどそのとき、フロアにはゆるやかなブルース調のワルツが流れ始めていた。
結城凝香は男を見つめた。グラスを持つ指先に、わずかに力がこもる。
紀藤瑛介に嫁いでから、公の場で踊ったことは一度もない。どう踊るのか、忘れてしまいそうなくらいに。
「行きなよ、凝香」
小林智美が耳元でけしかける。
「忘れないで。今のあんたは自由の身なんだから。男なんて選びたい放題でしょ」
――そうだ。
紀藤瑛介は他の女との間に子供まで作った。なら、自分が別の男を受け入れたって、何の問題がある。
結城凝香はグラスに残った酒を一息に飲み干し、顔を上げた。そして男の手のひらに、自分の手を重ねる。
「ええ」
男のステップは慣れていて、しかも紳士的だった。結城凝香はすぐにその流れへ身を委ねていく。
そのころ、紀藤瑛介は高橋弁護士から送られてきた住所を頼りに、この場所へたどり着いていた。
店に足を踏み入れた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、見知らぬ男の腕の中で踊る結城凝香の姿だった。
背中の大きく開いたドレスからのぞく肩と首筋の線が、照明に照らされてなめらかに浮かび上がる。
こんな結城凝香を、彼は見たことがなかった。艶やかで、色っぽく、流れる視線のひとつひとつに熱が宿っている。
しかも、男の手が彼女の腰をなぞるのを目にした瞬間――紀藤瑛介の中で、何かがぷつりと切れた。
長い脚で人混みを突っ切り、そのままダンスフロアへ向かう。全身から放たれるのは、凍てつくような低気圧。
「結城さん、僕は中島海斗といいます」
中島海斗は彼女の細い腰を抱き寄せたまま、耳元で低く囁いた。
「実は、ずっと前からあなたに憧れていました」
結城凝香は妖しく微笑む。
「そう。じゃあ今、あなたにチャンスがあるわね」
言葉が落ちた、その瞬間だった。
力強い大きな手が彼女の手首をぐいと掴み、乱暴に中島海斗のそばから引き剥がした。
「っ……」
痛みに結城凝香が小さく息を呑み、顔を上げる。そこにあったのは、紀藤瑛介の冷えきった顔だった。
「どうしてここに?」
結城凝香が驚いたように問う。
「来い」
紀藤瑛介はそれだけ言うと、彼女の手首を掴んだまま、ダンスフロアから引きずるように連れ出した。
結城凝香は必死に抵抗し、振り払おうとする。
「瑛介、頭おかしいんじゃないの?」
「俺が?」
紀藤瑛介は冷笑した。掴む力はますます強くなり、骨が軋みそうなほどだ。
「お前はまだ俺の妻だ。そのくせ、ここで他の男と抱き合って踊るとはな。凝香、恥ってものを知らないのか」
結城凝香は意にも介さない。
「もう離婚するのよ。私がどんな男と一緒にいようと、あなたには関係ないでしょう」
紀藤瑛介は彼女を睨み据えた。声は冷たく鋭い。
「金が欲しいなら、そう言えばいい。何もこんな汚い真似をしなくてもな」
結城凝香はぴたりと動きを止めた。
「……どういう意味?」
「どういう意味かなんて、自分でわかってるはずだ」
紀藤瑛介の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
「俺が不能だと? 試したこともないくせに、よくそんなことが言えたものだ」
「間違ってる?」
結城凝香は一歩も引かなかった。
「結婚して三年。あなた、一度だって私に触れなかった。そんな私が紀藤夫人を名乗ったところで、ただの飾りと何が違うの?」
「……なるほど。お前が気にしていたのはそこか」
紀藤瑛介は一歩、さらに距離を詰めた。長身の影が結城凝香をすっぽり覆う。低い声には、わずかな揶揄が滲んでいた。
「今まで気づかなかったな。そんなに男が欲しかったのか」
結城凝香の頬がかっと赤くなる。反射的に後ずさろうとしたが、腕を掴まれ、逆に彼の胸元へ引き寄せられた。
「欲しいなら、素直にそう言えばいい。俺だって、お前を満たせないわけじゃない」
あからさまな挑発だった。
結城凝香は羞恥と怒りで身体を震わせながら、必死にその手を振りほどこうとする。だが、びくともしない。
そのとき。
彼女はふいに、くすりと笑った。
そして皮肉を込めた目で紀藤瑛介を見上げる。
「瑛介、今のあなたを見てると――」
唇の端がゆっくりと持ち上がる。
「もしかして、嫉妬してるんじゃないかって思っちゃうわね」
