第7章 あなたは元夫で、私のことに口を出す権利はない
ちょうど別件でも協業の打診が入っていた。だが相手は「Rubyと直接会って話したい」と言ってきたうえ、拠点も同じ街だという。
結城凝香は少し考えた末、その条件を受け入れ、面会の日時を決めた。
翌日の昼。
顔を合わせた瞬間、お互いに目を丸くすることになる。
結城凝香が会うことにしたのは、事業を再開するためだ。いつまでも身を隠している必要はない。
いずれ誰もが知る。Rubyが自分だと。
ただ――まさか相手が、紀藤瑛介の宿敵である松崎家の松崎拓海だとは思わなかった。
松崎家は宝飾業界で紀藤家に及ばない立場にありながら、ずっと紀藤グループの市場を奪おうとしている。
おまけに紀藤瑛介と松崎拓海は幼い頃から折り合いが悪く、互いに「一番嫌いな相手」と言っていい関係だ。
一方の松崎拓海も、会う相手が結城凝香だとは想像していなかった。
競合として、紀藤瑛介のことは知り尽くしているつもりだった。妻である結城凝香についても同じだと思っていた。
だがどうやら――これまでの「知っている」は、丸ごと疑い直す必要がありそうだった。
二人が落ち合ったのは、落ち着いたフレンチレストラン。
松崎拓海は椅子を引き、紳士的に促す。
「結城さん、どうぞ」
「紀藤夫人」ではなく、「結城さん」。
その呼び方ひとつで、結城凝香の第一印象はぐっとよくなった。
互いに注文を済ませ、ようやく本題に入る。
「結城さん。ぜひ、うちでチーフデザイナーをお願いしたい。待遇は可能な限り最高のものを用意します。いかがでしょう」
松崎拓海の笑みは柔らかい。礼儀正しく、押しつけがましさもない。
もともと彼は、半分は駄目元で話を持ちかけただけだった。まさか本当にRubyと面談できるとは思っていなかったのだ。
普通に考えれば、Rubyが選ぶのは紀藤グループだろう。資本力も、拡張性も、提示できる条件も、松崎側より上だ。
――だが、目の前の相手が結城凝香だとわかった瞬間。
松崎拓海の中で、火がついた。
どんな手を使ってでも、彼女を自分の側へ引き込む。
そうなれば紀藤瑛介の顔は、さぞ見ものだ。
結城凝香は、すべて見透かすように口元を上げる。
「松崎社長がそこまで好条件を出すのは、私が『元・紀藤夫人』だから、ですよね」
松崎拓海は否定しない。
「我々は競争相手です。商売は戦場と同じ。先に取ったほうが、半歩先に立つ。まして――」
そこで言葉を切り、興味深そうに目を細めた。
「紀藤瑛介は、今もあなたがRubyだと知らない。その事実だけ見れば、結城さんがあえて隠していたとも取れます」
つまり。
目的は一致している。
強い者同士が利で結ぶ――それが、いちばん手堅い。
あえて隠していた、か。
完全に否定はできない。けれど、真実は少し違う。
結城凝香は最初、紀藤瑛介に話すつもりだった。
ただ――聞く耳を持たなかっただけ。知ろうともしなかっただけ。
そのとき、店員が前菜を運んできて、会話はいったん途切れた。
――
同じころ。
紀藤グループでは、秘書が受け取った報告を紀藤瑛介に告げていた。
「紀藤社長、Rubyからは協業辞退の返答です。それと……奥様が松崎社長と昼食をご一緒されているようで……」
「……は?」
株価は多少持ち直し、息をつく間もできていた。だが仕事は山のようにある。
紀藤瑛介は一瞬、松崎社長が誰なのか思い出せなかった。
「どの松崎社長だ」
秘書は顔色をうかがい、慎重に声を落とす。
「松崎拓海、です……」
「――っ」
次の瞬間、拳が机を叩き、鈍い音が響いた。
まだ正式に離婚も成立していない。
そのくせ彼女は、よりにもよって自分の宿敵と昼食だと?
「場所を言え」
紀藤瑛介はコートを掴み、顔を陰らせたまま執務室を出る。
秘書は慌てて住所を伝え、運転手に地下駐車場へ車を回すよう指示した。
――
「……ご提案の件、前向きに検討します。お返事は数日後でもいいですか」
結城凝香の声は軽やかだった。
胸の奥から滲むような愉しさすらある。
その言葉を、店に到着した紀藤瑛介は耳にした。
怒りが腹の底から煮え上がる。だが、松崎拓海の前で爆発するわけにはいかない。見世物になるだけだ。
メインディッシュを食べ終えたところらしく、結城凝香は優雅にナイフとフォークを置いている。
「何の協業だ。松崎社長はどんな条件を出した? もう一度、聞かせてもらおうか」
結城凝香から視線を外し、紀藤瑛介は松崎拓海を真正面から見た。
嫌悪が隠しようもない。
松崎拓海も笑みを消し、露骨に不機嫌になる。
「話しているのは結城さんとだ。あなたではない。なぜあなたに説明しなければならない」
紀藤瑛介は見下ろすように身を乗り出し、圧をかける。
「俺の妻と協業の話をしておきながら、俺だけ避ける。下心があると疑いたくなるな」
松崎拓海は一歩も引かない。
「紀藤社長、あなたは一度でも公に結城さんを『奥様』だと認めましたか」
そのひと言で空気が冷えた。
食事の気分は完全に壊れた。
結城凝香は立ち上がり、紀藤瑛介をまっすぐ見据える。嘲りを、隠しもしない。
「紀藤瑛介、私たちはもう離婚したの。元夫のくせに、何の権利があって私に口を出すの?」
それから松崎拓海へ視線を移し、軽く会釈する。
「松崎社長、今日はここまでにしましょう。改めてまた」
そう告げると、結城凝香は紀藤瑛介の顔など一切立てず、そのまま店を出ていった。
松崎拓海も「気にしないで」とでも言うような目で応え、続いて席を立つ。
二人が視線を交わすのを見た瞬間、紀藤瑛介の中で怒りが膨れ上がった。
理由は説明できない。ただ、腹が立つ。どうしようもなく。
店を出るなり、彼は秘書へ電話をかけた。
「松崎拓海と結城凝香が、何の協業を話していたのか調べろ!」
――
その夜。
結城凝香は取引先を広げるため、ビジネスレセプションに顔を出した。
この三年間、紀藤瑛介に連れられてこうした場へ出たことは一度もない。
だが彼女は結城家の人間だ。上の世界の顔ぶれにも、知った顔は少なくない。
もっとも、本人が普段から控えめにしていたせいで、「結城凝香」という存在をはっきり覚えている者は多くなかったが。
今夜の彼女は、淡いイエローのオフショルダーのロングドレス。
すらりとした首筋がほどよく露わになり、体に沿うシルエットが曲線を美しく際立たせている。
艶はあるのに、品が崩れない。
壁際の目立たない位置にいても、視線が自然と吸い寄せられた。
一方、葉月清奈も紀藤瑛介の同伴者として会場にいた。
今日の彼女は隙がない。
髪はきっちりアップにまとめ、耳元にも首元にも、きらめくジュエリー――どれもRubyのデザイン。
酒紅のワンショルダー、深いスリットの入ったマーメイドドレスは、炎みたいに華やかで、どこにいても目を奪う。
葉月清奈は真っ先に結城凝香を見つけた。
紀藤瑛介が他社の役員たちと話している隙を見て、グラスを片手に近づいていく。
ワインを揺らしながら、瞳の奥に計算が走る。
わざと足をもつれさせた。
「あっ……危ない……!」
手から滑ったグラスが宙を舞い、赤い雫が散る。
結城凝香は反射的に身を引いた。
それでもワインの一部が裾に飛び、点々と紅い染みを残す。
葉月清奈はすぐに体勢を立て直し、いかにも申し訳なさそうに駆け寄った。
「ごめんなさい……さっき、ちょっとよろけちゃって……どうしましょう……」
ドレスに染みがついたまま会場にいるのは、確かにみっともない。
狙いは一目瞭然だ。恥をかかせたい。
結城凝香は感情を表に出さないまま、淡々と言う。
「大丈夫。処理してくるわ」
今は責任を追及する場面ではない。
結城凝香は近くのスタッフに声をかけ、案内されるまま会場をいったん離れた。
小さなトラブルだ。気づいた者は多くない。
背中を見送りながら、葉月清奈は胸の内で嗤う。
紀藤瑛介の隣に立つのは、自分だけでいい。
何食わぬ顔で彼のもとへ戻り、また優雅で美しい「同伴者」に戻った――その直後。
「ねえ、誰……すごく綺麗……」
「見たことない。名前、知りたいな」
あちこちから感嘆の声が上がり、会場中の視線が一方向へ集まった。
葉月清奈も釣られて振り向き、息を呑む。
「……そんな、どうして」
