第8章 濡れ衣は、何の前触れもなく着せられる
再び人前に姿を現した結城凝香は、先ほどよりもさらに目を奪う存在になっていた。視線という視線が、吸い寄せられるように彼女へ集まっていく。
紫から白へとなめらかに移ろうグラデーションのドレス。上半身は身体に沿うホルターネックで、胸元の中央にはさりげないカットアウト。誇らかな曲線が、いやらしさとは無縁のまま際立っていた。スカートは足首まで流れ、歩くたびに色彩が揺れて、どこか神秘めいた余韻を残す。
首元と耳元には同系色のジュエリー。けれど宝石が主張するのではなく、あくまで結城凝香という存在を引き立てる脇役に徹している。気品と余裕。大ぶりの輝きさえも、彼女の美しさの影に退いた。
明るさ、神秘、そして知性。
侵食するような美ではない。むしろ、近づきたくなる美。
賞賛の声が四方から降り注ぎ、彼女の素性を探ろうとする気配まで漂い始める。名刺を差し出す者、近くで言葉を交わしたがる者――熱は、じわじわと広がっていった。
葉月清奈は信じられないものを見る目で結城凝香を見つめた。
まさか、再登場しただけで会場をここまで塗り替えるなんて。
――最初からこんなふうになるなら、さっきあんな小細工をするんじゃなかった。
あのときの一着なんて、今の輝きには到底及ばない。
……自分が、あの女を目立たせてしまった。
葉月清奈は奥歯を噛みしめる。
一方、紀藤瑛介は瞬きすら忘れたように凝香を見ていた。
結城凝香が「盛装」した姿を見るのは、これが初めてだった。こんなにも鮮烈で、視線を奪うものだったのかと、今さら思い知らされる。
結婚に不満があった彼は、結城凝香を妻だと公に認めなかった。式も挙げず、籍を入れただけ。
もし結婚式をしていれば――この光景を三年前に見ていたはずなのに。
葉月清奈が我に返ったとき、紀藤瑛介の目がまっすぐ結城凝香を追っているのが見えた。そこには隠しようのない驚嘆がある。
胸の奥に、冷たい危機感が走る。
葉月清奈は彼の腕に自分の腕を絡め、身体ごと寄せた。流れるように視線を揺らし、吐息が耳にかかる距離で甘く囁く。
「瑛介、ちょっと疲れちゃった。どこかで休ませてくれない?」
いつものやり方。彼が弱い、あの「釣り針」のような声。
――けれど、今回は違った。
紀藤瑛介は彼女に目もくれない。休ませるために移動もしない。
それどころか、絡められた腕をそっと外し、軽く押しやって距離を作った。
紀藤瑛介の視線は、終始、結城凝香のほうへ向けられたまま。
「葉月さん、疲れたなら先に休め。俺はまだ用がある」
言葉にされなくても、葉月清奈にはわかった。
距離を置こうとしている。
同伴者の自分の手を、結城凝香のせいで振りほどいた。
面子を潰されたも同然だ。
爪が掌に食い込み、ちくりと痛む。その痛みで、葉月清奈は怒りを押し殺した。
ここで取り乱せば、自分の価値が下がるだけ。
紀藤瑛介を一度だけ深く見つめ、それから踵を返す。
気持ちを整えないと、取り返しのつかないことをしでかしかねない。
けれど紀藤瑛介は、彼女が去ったことにも気づかない。
彼の目は、どうしようもなく結城凝香を追っていた。
結城凝香は、葉月清奈の背に滲む狼狽と焦りを見逃さなかった。
――こうなる可能性は、最初から読んでいた。
さっき揉めなかったのは、ひとつは自分の印象を落としたくなかったから。
もうひとつは、こうして「見せつけるように」登場し直して叩き返すためだ。
髪を振り乱して争うより、ずっと効く。
そして、ずっと面白い。
やがて商界の名士たちが次々と結城凝香のもとへ集まり、名刺を交わし、声をかけ始めた。
結城凝香は落ち着き払って受け答えし、場の空気を柔らかく整える。再始動を目指す彼女にとって、これ以上ない追い風だった。
遅れて戻ってきた葉月清奈は、その光景を見て唇を噛む。
――わざとだ。
結城凝香は最初からこのビジネスレセプションに来て、皆に知らしめるつもりだった。
自分こそが紀藤夫人だと。紀藤瑛介に認めさせるために。
葉月清奈は紀藤瑛介の姿を探す。
彼は今は結城凝香を見ていない。誰かと商談しているらしい。
それでも結城凝香の立ち位置は近く、楽しげに別の相手と話している。
葉月清奈は顔に悔しさと悲しみを貼りつけ、紀藤瑛介のもとへ歩み寄った。
結城凝香から目を外していた紀藤瑛介も、葉月清奈が戻るとその様子の異変に気づく。
「どうした」
葉月清奈は目尻を赤くし、今にも泣きそうな声で言った。
「あなたがくれたネックレス……壊れちゃったの」
紀藤瑛介は眉をひそめる。
贈った宝飾品は数えきれないほどある。ネックレスひとつで、ここまで落ち込むのか。
だが首元に視線を落とし、ネックレスが消えているのを見て察した。
Rubyの、あのネックレスだ。
「どうして壊れた」
葉月清奈のやりきれない思いに、怒りが混ざる。
「結城凝香よ。あの人が壊したの!」
声は決して小さくなかった。
結城凝香に聞こえないはずがない。
「そのネックレスを見たの、私以外だと結城凝香だけ。あの人以外にありえないわ」
結城凝香は冷ややかに葉月清奈を見た。
さっきの手が効かなかったから、今度はこの手か。
数歩で二人の前まで歩み寄る。
「私が壊したって? 理由は? 何のために?」
「嫉妬に決まってるでしょ」
葉月清奈は反射的に言い返した。考える気配もなく、汚れた言葉だけが滑り出る。
「瑛介が私に贈り物をしたのが悔しかったのよ。自分より私を大事にしてるってわかって、我慢できなかったんでしょ!」
三人の関係は、すでに完全な秘密ではない。
周囲の視線は一気に集まり、露骨な「面白がり」が空気を濁らせていく。
紀藤瑛介も、ふと考えてしまった。
自分は結城凝香にまともな贈り物をしたことがない。一方で葉月清奈には高価なものを与えてきた。
結城凝香が感情的になって壊したとしても、不思議ではない――そう思えてしまう。
つまり彼女の中には、まだ自分がいる。
離婚も結局、駆け引きだったのだと。
紀藤瑛介の視線から、先ほどまでの驚嘆が少しずつ剥がれていく。
「贈り物が欲しいなら買ってやればいい。清奈のものを壊す必要はないだろう。謝れ」
言いながら、彼は葉月清奈の手の甲を軽く叩いて慰める。
贈り物程度、また買えば済む。そういう態度だった。
葉月清奈も、いかにも譲歩してやると言わんばかりに一歩引く。
「瑛介がそう言うなら、弁償までは求めないわ。ただ謝ってくれれば、それで済ませてあげる」
目的は、結城凝香に頭を下げさせること。
それにネックレスは本当は壊れていない。ここで引けば度量も演出できる。
結城凝香は、笑った。怒りと呆れで。
調べもしないで、二人そろって自分を犯人扱いする。
説明しても信じない。わかっている。
それでも、言うべきことは言う。
「私じゃないわ」
葉月清奈を見据え、口元に嘲りの弧を刻む。
「ネックレス一本くらい、私にはいくらでもある。施しなんて要らないしね。どうせ話しても埒が明かないなら――そんなに欲しいなら、私が一本あげる」
葉月清奈は「一本あげる」の部分だけを都合よく拾い上げた。つまり同じものを弁償するという意味だと解釈したのだ。
驚いたように目を見開き、鼻で笑う。
「Rubyのネックレスよ? その辺の安物とは違うの。あなたがRubyのジュエリーなんて持ってるわけないし、弁償できるわけないでしょ。見栄を張るのも大概にしたら?」
