第9章 泌尿器科、あなたにふさわしい
葉月清奈が激昂し、怒りも露わに責め立てるのとは対照的に、結城凝香はひどく落ち着いていた。感情を乱される気配すらない。
少し目端の利く人間なら、結城凝香がとばっちりを食っただけだとわかるはずだ。十中八九、濡れ衣。
ただ、この件が結城凝香の言う通り簡単には白黒つけにくいのも事実だった。しかも、こんなビジネスレセプションの場で醜く言い争うなど、品位も体面もあったものではない。
グラスの中のワインを軽く揺らし、結城凝香は眉を上げた。
「どうして私がRubyのジュエリーを持っていないって言い切れるの? まさか、私の宝飾品を全部ご覧になったことでも?」
赤ワインをひと口含み、それから澄んだ声で言い放つ。
「同じネックレスが届けばわかるでしょう。本物かどうかも、まったく同じかどうかも」
そう言い残すと、結城凝香はもう紀藤瑛介にも葉月清奈にも視線を向けず、そのままレセプション会場の別のほうへ歩き去っていった。
あの二人の顔など、もう見たくもない。せっかくの場が台無しだし、胸くそまで悪くなる。
葉月清奈は、結城凝香が「まったく同じネックレスを弁償する」と言ったのを聞いて、唇の端を嘲るように吊り上げた。声もわざと少し張る。
「誰だって知ってるでしょ? Rubyのネックレスがどれだけ手に入りにくいか。デザインによっては数点しかないし、ひとつしか存在しないものだってあるのよ。市場に出た瞬間、すぐ買い手がつく。売れ残りなんてあるわけないし、持ち主だってそう簡単に手放さないわ」
そこでわざと一拍置いてから、さらに棘を含ませた。
「私がつけていたネックレスだって、現存するのは三本だけ。しかも全部、もう持ち主が決まってるの。それなのに、同じものを弁償するですって? 大口を叩いてるのもほどほどにしたほうがいいんじゃない? あとで恥をかくわよ」
周囲の客たちも葉月清奈の言葉に引っぱられ、結城凝香は見栄を張っているだけだと受け取り始めた。
「そうだよな、あれは普通の人間が買える代物じゃない。金があるだけでも無理だって聞くし」
「お嬢さんの言う通りだ。さすがに話を盛りすぎじゃない?」
「壊したなら、素直に謝って賠償すればいいだけでしょうに。あんな言い方をするなんて、結局払う気がないようにしか見えないわ。さっきまで印象よかったのに……」
紀藤瑛介もまた、結城凝香がまったく同じネックレスを用意できるとは信じていなかった。彼女にどれだけの金があり、どんな宝石を持っているか、自分は把握している――そう思っている。
だが、この場でそれ以上は何も言わなかった。結城凝香はすでにここにはいない。
代わりに葉月清奈へ向き直る。
「修復できるかどうか見せてみろ。無理なら買い直せばいい」
「できるだけ修復してもらうわ。あなたが贈ってくれたものだもの。意味が違うの」
葉月清奈はそう答えたものの、不機嫌さは消えない。
紀藤瑛介は、単にネックレスの件で気落ちしているのだと思い、いくつか慰めの言葉をかけた。
その小さな騒ぎを除けば、ビジネスレセプションで他に何か起きることはなかった。
宴が終わると、結城凝香は車に乗り込み、すぐ秘書の莉々へメッセージを送った。保管してあるあのネックレスを、葉月清奈へ送るようにと。
自分がデザインしたネックレスなのだ。手元にないはずがない。仮になくても、一から作るくらいどうということもない。
運転手が車を出そうとした、そのときだった。
紀藤瑛介が突然前へ出てきて、車の行く手を塞いだ。
こんこん、と窓が叩かれる。
結城凝香は窓を下ろした。また何を言い出すつもりなのか。
紀藤瑛介は身をかがめ、眉をひそめる。
「凝香、降りろ。話がある」
「あなたと話すことなんてないわ」
そう言って、結城凝香は窓を閉めようとした。
「降りないなら、このままでもいい」
紀藤瑛介は慌ててそれを制した。まだ言い終えていない。このまま行かせるわけにはいかなかった。
結城凝香は露骨にうんざりした目で彼を見る。
「用があるなら手短にして。もう遅いの。早く帰って休みたいわ」
胸の内の苛立ちを押し殺しながら、紀藤瑛介はどこか恩着せがましい口調で言った。
「俺が出資してやる。その代わり、離婚の件と、俺に関する発言は全部抑えろ。自分の立場を忘れるな。お前と組もうとする連中だって、結局は俺の顔を立ててるだけだ」
つまり、結城凝香に世間で通用する看板があるとすれば「紀藤夫人」という肩書だけで、それ以外に他人が欲しがる価値などない――そう言いたいのだ。
結城凝香の胸の奥で、かっと怒りが燃え上がった。
本気でそう思っているのだ。この人は。自分は彼を離れたら何者でもないと。
――これが、かつて一目で心を奪われ、自分から望んで結婚した相手。
当時の自分は、どうかしていたに違いない。
「前にもはっきり言ったはずよ。あなたは元夫。私のことに口を出す必要なんてないし、まして施しなんて要らないわ」
ゆっくりと、一語一語噛みしめるように告げる。
「それから離婚のことだけど、私はもう離婚協議書に署名した。あとはあなたがサインするだけ。気が変わることはないわ」
三年で十分だった。三年尽くしても、何ひとつ返ってこなかった。これ以上、自分の人生まで差し出すつもりはない。
今思えば、その三年ですら長すぎた。丸ごと無駄にしたようなものだ。
結城凝香の声には、迷いがひとかけらもなかった。だが紀藤瑛介は、やはり信じない。
結城凝香が本気で自分と離婚するなど、どうしても思えなかったのだ。
今さら離婚するくらいなら、なぜ当時自分と結婚したのか。もともと感情の土台などない結婚だったし、彼は最初から冷たかった。耐えられないのなら、もっと前に去っていたはずだ。今まで残っていた以上、離婚など本気ではない――彼はそう決めつけている。
「いい。離婚の話も、俺の件も今は置いておく」
紀藤瑛介は歯を食いしばった。
「だが、お前が流したデマはどうするつもりだ。お前のせいで紀藤グループの株価は大きく揺れた。責任を取れ」
今の世論は多少持ち直している。だが、まだ足りない。結城凝香本人が表に出て火消しするのが、いちばん早い。
もっとも、彼女にその気があるなら、最初からあんな言い方はしていない。
故意だとしても構わない。今はとにかく収束させることが先だ。
結城凝香は、どうにもできないとでも言いたげに肩をすくめた。
「それは記者の受け取り方でしょう。私には関係ないし、対応するつもりもないわ」
まるで暖簾に腕押し。何を言っても手応えがない。
それが余計に、紀藤瑛介の神経を逆なでした。
彼の周囲の空気がすうっと冷え、結城凝香へ向ける視線にもあからさまな威圧が宿る。
「夫婦は一体だ。外で俺が不能だなんて吹聴して、お前に何の得がある。それに賠償の件もそうだ。お前には金もないし、Rubyに伝手もない。同じネックレスなんか手に入るはずがない。結局、嘘をついたことが証明されるだけだ。これ以上、俺に面倒を増やすな」
少し間を置いて、さらに言い足す。
「俺の言う通りにしろ。清奈のネックレス代なら、俺が代わりに払ってやる」
これだけ譲歩してやったのだから、断る理由はないだろう――そんな口ぶりだった。
三年間、結城凝香は彼の好みを覚え、生活の癖を覚え、手ずから好物を作ってきた。
それでも、余分なひと目すら向けてもらえなかった。
なのに今の彼の物言いには、まるで自分をよく知っているかのような妙な確信が滲んでいる。
表向き、自分はRubyを知らないことになっている。だが、それ以前に、彼が一度でも自分を助けてくれたことがあっただろうか。ろくに確かめもせず、真っ先に犯人扱いしたくせに。
――なるほど。結局、そういうことか。
いかにも紀藤瑛介らしい。何もかも損得勘定。
背もたれにゆったりともたれかかり、結城凝香は嘲るような目を向けた。
「私は弁償するって言ったの。できるから言ってるのよ。あなたが気を回す必要はないわ。それより、ご自分のほうこそ早く泌尿器科に行ったら? 長引かせると厄介でしょうし」
それから前を向き、短く命じる。
「出して」
紀藤瑛介が言い返す暇もない。運転手は結城凝香の命令に従い、そのまま車を発進させた。
不意を突かれた紀藤瑛介は、危うく足を取られかける。
耳にこびりついて離れないのは、最後のあの一言だった。みるみる彼の顔色が暗く沈んでいく。
「凝香……覚えてろ」
まさか面と向かって、またあんなことを言うとは。
車がもう少し遅ければ、無理にでも引きずり下ろして話をつけていたに違いない。
少し離れた場所では、車内から葉月清奈がその一部始終を見ていた。
怖かったのだ。あの二人が元に戻ることが。紀藤瑛介の心の中に本当に結城凝香の居場所が生まれ、自分が押し出されることが。
レセプションの最中、紀藤瑛介が結城凝香へ向けた、あの目を奪われたような視線がどうしても頭から離れない。
だが今、結城凝香の車が勢いよく走り去り、二人が険悪なまま別れたのを見て、葉月清奈はようやく少しだけ胸を撫で下ろした。
――あの二人に、やり直されては困る。
絶対に。
これまでずっと、自分は紀藤瑛介に嫁ぐためだけに努力してきた。誰であろうと、その前に立ちはだかることは許さない。
「紀藤瑛介は……私のものよ」
