第4章
平岩空人は反射的に寝台に手をつき、起き上がろうとした。だが両脚に力を入れた瞬間、骨の髄まで突き刺さるような痛みが走り、次いで――すべての力が抜け落ちた。
「……くそっ」
思わず喉の奥でうめき、胸中で悪態をつく。
外からは罵声が飛び交い、子どもの怒鳴り声が混じる。何かが叩き割れる乾いた音に、女の冷ややかな一喝が重なり、あたりは完全に修羅場だった。
空人は息を殺し、乱れた音の塊から状況を拾い上げようとする。
庭では、和泉静留が翔太と華蓮を背にかばい、柳眉を吊り上げて立っていた。手には、さきほど大崎弘人の額に叩きつけた茶碗を握りしめたまま。掌にはじっとり汗が滲む。
額の血を指で触れ、指先に温かい液体が絡む。
大崎弘人は奥歯を噛みしめ、静留を睨み据えた。眼差しの憎悪は、形を持って襲いかかってきそうなほど濃い。
「俺も長いことやってきたが、俺の頭をぶん殴った女はお前が初めてだ」
歯ぎしり交じりの声。だが静留は口元に笑みを浮かべる。笑っているのに、瞳はまるで笑っていない。
「どういたしまして」
「覚えてろよ!」
大崎弘人は怒りのあまり、かえって乾いた笑いを漏らした。脅し文句を投げ捨てると、手下を引き連れて踵を返す。
その一団が去っていく背中を見送った途端、静留は大きく息を吐いた。背中はとっくに冷汗でびっしょりだった。
「ママ……」
翔太と華蓮が左右から彼女の服の裾をつかみ、不安げに見上げてくる。
「大丈夫。ママがいる」
静留は二人の頭をそっと撫でた。掌がひやりと冷たい。
外の状況は分からなくても、空人には足音が近づく気配だけはすぐに分かった。
深く息を吸い、まだ昏睡しているふりをする。
和泉静留が戸を押し開ける。ベッドの男は規則正しく胸を上下させ、呼吸も整っていた。
「……やめなさい、演技は」
冷えた声。平岩空人へ向ける視線には、警戒が色濃い。
得体の知れない男。しかも子どもたちと酷似した顔。静留が疑うなというほうが無理だった。
その言葉に、空人の胸がわずかに跳ねる。ここまで勘が鋭いとは。
ならば、と彼は観念したようにゆっくり目を開けた。だが視界にはぼやけた光と影が滲むだけで、至近距離の静留の輪郭すら掴めない。
「お前は誰だ」
「あなた、誰?」
二つの声が同時に重なり、静まり返った部屋の中でぶつかったかと思うと、互いにぴたりと止まった。
静留がわずかに眉を上げ、空人を細かく観察する。
――いま、確かにこちらへ向けて話した。
だが、彼の瞳は一点も焦点を結ばない。瞳孔の反応もない。
静留は悟られぬよう手を伸ばし、彼の目の前でひらりと振ってみる。反応がないのを確かめると、低く告げた。
「……見えてないのね」
問いかけの形をしていても、その口調は断定だった。
「……ああ」
空人はしばらく沈黙してから、小さくうなずく。
害のなさそうな顔。どこか哀れを誘うほどに弱々しい。
それでも静留は気を緩めない。
「あなた、いったい何者?」
詰め寄りながら、さらに一歩踏み込む。
空人は顔を上げ、わざと作った虚弱さを滲ませた。言葉も息がかすれる。
「覚えてない。目が覚めたらここにいて……頭の中、真っ白なんだ」
静留はしばらく彼を見つめ、嘘の綻びを探した。だが男の顔色は青白く、脚には彼女が替えた包帯が巻かれている。血がじわりと滲み、確かに消耗しきって見えた。
その一方で、静留の目が届かない場所で、空人はシーツを握る指に力を込める。
――正体だけは、絶対に割れない。
幸い静留は深追いする気がないらしく、鼻で小さく笑うと、脇に置いてあった軟膏を手に取った。綿棒の先にそっと取る。
「薬、替えるわ」
彼女はこの男の言葉を一つも信じていない。
だが助けた以上、もう一度死なせるわけにもいかなかった。
静留が近づく気配に、空人は反射的に身を引く。
静留は一瞬だけ手を止めたが、何事もなかったように傷口へ身を寄せ、包帯をほどき、丁寧に薬を塗り直す。
「この脚の傷、ただの殴り合いでできるものじゃないわ」
薬を塗り終え、別の包帯を巻きながら静留は淡々と言った。
「記憶喪失でも、自分が誰に恨まれてるかくらいは分かるでしょ」
空人は目を閉じたまま、かすれ声で返す。
「……思い出せない」
協力する気がないと見て、静留もそれ以上は訊かない。
外した血まみれのガーゼをゴミ箱へ放り込み、薬を半ば乱暴に彼の手のひらへ押し込んだ。
「飲んで」
言い捨てると足音が遠ざかっていく。
「さっきの連中……俺に用があったのか?」
空人は探るように、低く問う。
「あなたには関係ない」
静留はドアノブに手をかけ、そう吐き捨てて出ていった。
この男に語る必要なんて、どこにもない。
部屋は再び静寂に沈む。
平岩空人はゆっくり枕に背を預けた。瞳の奥の茫然が消え、代わりに沈んだ冷気が差す。
彼は手探りで手首の時計に触れ、何気ないふりで一度押した。
ごく小さな唸り――機械の振動音が走り、すぐに消える。
夜が更け、万籟が息を潜める。
黒い影が音もなく塀を越え、空人のベッドの前に着地した。片膝をつき、短く告げる。
「ボス」
「……調べは?」
空人は見えない目のまま、声の方へ顎をわずかに向ける。
「例の連中はまだ動きなし。こちらで追っています」
「なら、先に葉山様の件を片づけろ。痕跡は残すな。それと、この家の主の情報も洗え」
平坦な声。だが底には刃のような冷たさが滲んでいた。
「了解。先にお連れしますか?」
部下の探るような問いに、空人は首を振る。胸中に計算があった。
影が消えるまで、和泉静留は庭に夜の来訪者があったことすら知らない。
薄明の朝。庭に騒がしい声が弾けた。
「ママ! あの人、顔にブツブツいっぱい!」
「手にもある!」
翔太と華蓮の声に叩き起こされ、静留は頭が追いつく前に空人の様子を確認した。
――確かに、全身に発疹が広がっている。
昨日使ったのはアモキシシリンだけ。
つまり、アモキシシリンにアレルギー反応。
その事実に静留は息を呑み、顎のラインがきゅっと強張った。
反応の出方が、翔太とまったく同じだ。
考える暇もなく、静留は用意していた抗アレルギー薬を飲ませる。
薬が効き始めると、空人の呼吸は次第に落ち着いていった。
静留が呆然としていると――院門がドンッと蹴り破られ、男の怒声が飛び込んでくる。
「和泉静留! 出てこい!」
振り向けば、江原信也が顔を真っ青にして立っていた。その隣で、和泉白子が勝ち誇ったように口元を歪める。
「静留。信也があなたを好きじゃないのは分かるけど、だからって信也の部下に八つ当たりするなんて、ひどいわ!」
白子が先に言い切り、汚水を頭から浴びせるように決めつける。
だが同意は返ってこない。
彼女が怪訝に目を向けると、信也は静留の手――平岩空人の脚に添えられたその手を、憎々しげに凝視していた。
「和泉静留……恥ってもんを知らねぇのか!」
その露骨な視線に、静留は冷ややかに見返す。
「私がどうしようと、あなたに関係ある? 江原信也。首を突っ込む場所、間違えてるわ」
一語一語、噛んで捨てる。滑稽すぎて笑えるほどだった。
