第7章
二人の子どもが家の中へ入っていくのを見届け、和泉静留はようやく息を吐いた。踵を返し、自分の部屋へ戻る。
――ただ、彼女の目の届かないところで、翔太の瞳が一瞬きらりと光った。
さっき和泉白子が口にした言葉を、翔太はしっかり胸に刻んでいた。
自室に戻るなり、翔太はパソコンを開き、指をキーボードの上で走らせる。
以前こっそり控えておいた和泉白子の携帯番号。そこから手を回し、彼女の端末へ侵入する。ほどなくして、例の「動画」ファイルを見つけ出した。
再生ボタンを押す前に、翔太は小さく深呼吸した。胸の奥に、落ち着かないざわめき。
こんなことを、静留が許すかどうかは分からない。
それでも――静留が脅される可能性を、ひとつだって残したくなかった。
幸い、動画はひどく荒い。映っているのは、ある男の背中だけ。平岩空人と思しき後ろ姿が近づいても、顔は判別できない。目元など、なおさらだ。中の人物が和泉静留だと証明できる代物ではない。
翔太は動画を自分のパソコンへコピーし、さらに和泉白子の端末から元ファイルを完全に削除する。ゴミ箱の中まで、きっちり空にした。
そこまでやり終えて、やっと肩の力が抜けた。
椅子に腰かける翔太の、ぷくっとした頬は真剣そのものだった。
動画の男の背中――どこか見覚えがある。
翔太は眉を寄せ、画面の後ろ姿をじっと見つめ続けた。見れば見るほど、その体格が平岩空人と重なる。
でも、もし本当に平岩空人なら。
どうして静留は彼のことを何ひとつ覚えていないのだろう。まるで他人みたいに、ただの「知らない人」として扱っている。
翔太は胸の内でぶつぶつと呟き、そして決めた。
当時、いったい何があったのか。必ず突き止める。
二度とママを泣かせない。
唇をぎゅっと結び、心の中でさらに釘を刺す。
この件は、今はまだ静留には言わない。余計に傷つけたくないから。
全部はっきりしたら、そのときは――絶対に隠さず話す。
パソコンを閉じ、部屋を出た翔太は、ちょうど華蓮が平岩空人の部屋へ駆け込むところを見た。彼のそばにぴたりと張り付き、ちゅんちゅんと賑やかに喋っている。
平岩空人はベッドの背にもたれ、顔色こそまだ青白いが、華蓮の話を辛抱強く聞き、時々短く返事までしていた。
「おじさん、今日どう? 私、もう一回チェックしてあげよっか?」
ぱちぱち瞬く大きな目で見上げる華蓮は、どう見ても浮かれ気味だ。
平岩空人は思わず口元を緩めた。
「いいよ。もう何度も診てもらった」
からかうように言われ、華蓮は頬を赤くして、すぐにむっと真顔を作る。わざとらしいほど真面目な顔で。
「お医者さんが言ってたもん。定期的にチェックしたほうが治りが早いって。ちゃんと協力して」
そんな甘え方をされて、平岩空人が抗えるはずもない。
軽く咳払いをして、折れかけた、そのとき――
外から和泉静留が入ってきて、困ったように華蓮の額をこつんと叩いた。
「華蓮、おじさんに絡まないの。休ませてあげて」
「大丈夫だ」
華蓮が口を開くより早く、平岩空人がかばう。
「さっき華蓮が、俺の目と足はもう少し時間がかかるって言ってた。……そうなのか?」
その答えが、どうしても欲しい。声に切迫感が滲む。
和泉静留は頷き、真面目な顔で――それから、彼が見えていないことを思い出したのか、軽く咳をして答えた。
「あなたは少し特殊なの。焦らず、ゆっくり整えていく必要があるわ」
「……なら、もうしばらくここに居させてもらえないか。記憶が戻ったらすぐ出ていく。絶対に迷惑はかけない」
和泉静留は黙り込む。どう返すべきか迷っているのが分かる。
平岩空人はその迷いを察したのか、さらに声を低く、柔らかくして、へりくだるように頼んだ。
「今の俺は目が見えない。記憶もない。足も不自由だ。少しだけでいい、傷が癒えるまで置いてほしい。治ったらすぐに出ていく」
「ママぁ、おじさん、もうちょっとだけ一緒にいてほしい。いい?」
華蓮が静留の腕にしがみつき、ゆらゆらと揺する。
和泉静留はため息を飲み込み、結局折れた。
「……好きにして」
翌日は、子どもたちの誕生日だった。
和泉静留は朝早く起きてケーキを焼く。キッチンには甘い生クリームの香りがふわりと漂う。
華蓮は出たり入ったり忙しい。静留に道具を渡したかと思えば、次には平岩空人の部屋へ走り、客間で待つよう手を引いて連れていく。
「今日はね、私とお兄ちゃんのお誕生日なの! ママがケーキ作ってくれたから、絶対食べてね」
華蓮は平岩空人の手を引き、にこにこと目を細める。
平岩空人は引っ張られるまま、ゆっくり車椅子に座り直し、彼女の足取りに合わせて居間へ向かった。
見えないぶん、耳が冴える。
キッチンで動く静留の足音が、ひとつひとつはっきり分かった。
「ハッピーバースデー、トゥーユー……」
居間に穏やかなバースデーソングが流れた瞬間、和泉静留は二段のケーキを運んで出てくる。子どもたちは彼女を見るなり駆け寄り、左右からそれぞれ彼女の脚に抱きついた。
「ママ、大好き」
重なる幼い声に、静留は胸の奥が熱くなった。この数年の苦労が、全部報われる気がした。
「ほら、食べて」
声はいつもよりずっと柔らかい。静留はケーキをそっと置き、二人が願い事をするのを見守る。
そして翔太と華蓮が切り分けた最初の一切れは、迷いなく静留の手に渡された。
「ママ、だいすき」
改めて言われ、静留は微笑む。
「ママも、ずっとあなたたちが大好きよ」
ささやかな誕生日の食事が終わり、夜。子どもたちは眠気に勝てず、あくびを繰り返していた。
和泉静留が振り返ると、華蓮はいつの間にか平岩空人の胸の中で眠っていた。
小さな頭を彼の胸元に預け、すやすやと甘い寝息。唇の端に、うっすらと涎まで光っている。
平岩空人はわずかに背を丸めていた。その姿勢のほうが、華蓮が楽に眠れるのだろう。
静留は少し驚いた。
平岩空人は冷たそうに見えるのに、子どもに対してこんなに細やかだなんて。
足音を殺し、静留は二人を順に抱き上げ、寝室へ運ぶ。
平岩空人は彼女に「おやすみ」と告げ、自分の部屋へ戻っていった。
夜更け。
和泉静留は眠る子どもたちの顔を見つめ、目尻に薄い涙を滲ませた。
布団を整えてやり、そっと部屋を出る。
それからキッチンで酒瓶を一本手に取り、庭に出て、ひとり杯を重ねた。
あのとき、彼女は三つ子を産んだ。けれど、長子は身体が弱く、幼くして逝った。
それは今も、胸の奥に残る消えない傷。
子どもたちがいなければ、静留はとっくに折れていたかもしれない。
だからこそ――今、この子たちがこんなにも健気で優しいと、つい思ってしまう。もし、あの子が生きていたら……と。
涙が、頬をつうっと伝い落ちた。
飲めば飲むほど、頭が重くなる。
手の中の空になった瓶が、するりと落ちた。
和泉静留は立ち上がり、ふらふらと家の中へ向かう。
そのころ平岩空人は、自室でズボンを下ろしたところだった。額には汗がびっしり滲んでいる。
そこへ――乱れた足音が近づいてきた。鼻を突く酒の匂いも一緒に。
反応する間もなく、酒気をまとった和泉静留が、ひらりと軽い葉のように、彼の胸へ真っすぐ倒れ込んだ。
