第1章
【佳奈視点】
「言ったでしょ、博。あの子のせいで私の寿命が縮まりそうよ! もう二十四にもなるのに、男だろうが女だろうが、誰にもこれっぽっちも興味を示さないんだから!」
私は階段の途中で足を止めた。手にはキッチンからくすねてきたばかりのリンゴを握りしめている。麗子さんの金切り声が、二人の寝室のドア越しに漏れ聞こえてくる。どうやら、相当ご立腹のようだ。
「麗子、直樹はまだ運命の相手に出会っていないだけじゃないかな」
父さんはいつものように、のんびりとした仲裁役を演じている。
「運命の相手ですって? 博、あの子は他人の存在すら認めてないのよ! もしあの子に何かあったら……」
麗子さんの声が苛立ちで裏返った。
「ああもう、もしあの土地が総一郎の家庭を壊したあの泥棒猫の手に渡るようなことになったら、私、絶対に許さないから!」
うわ、マジか。私は音を立てないように近づき、ひんやりとした木のドアに耳を押し当てた。なんだか面白い話になってきたじゃない。
「麗子、落ち着いて。直樹はまだ若いし、医療の仕事に集中しているだけで――」
「あの子は氷山よ、博! 見た目は良くて頭も切れるけど、ただの氷の塊だわ。他人に興味を持とうとしないせいで、安藤家の財産を指の隙間からこぼれ落ちさせようとしてるのよ!」
(まったく、直樹ってば本当に歩く冷凍庫ね)
私は呆れて目を回した。
(どこの女があんな冷血男に耐えられるってのよ?)
だが、麗子さんが金銭問題で取り乱しているというのは初耳だった。
その時だ。吐き気を催すような音が聞こえてきた――低い唸り声と荒い息遣い。父さんと義母さんが「お楽しみ」を始めようとしている合図だ。またかよ。
「うわ、マジ勘弁……」
私は小声で毒づき、ドアから後ずさりした。
「ただ静かにリンゴを食べたかっただけなのに」
だが、廊下に突っ立っていると、ふと何かが繋がった。三年前の記憶だ。父さんが初めて私をここへ連れてきて、麗子さんと彼女の自慢の息子に会わせた時のこと。直樹は当時十七歳でガリガリだった私を値踏みするように見下ろし、最低な野郎みたいに鼻で笑ったんだ。
「母さん、これが例の『棒切れ』か」
彼は私がそこにいないかのように言い放った。
「当ててやろうか。この子と父親は、母さんが手っ取り早い金づるになると踏んだんだろう」
あのクソ野郎、よくもまあ! 確かにあの頃の私は骨と皮ばかりで不格好だったけど、あれから随分と成長したのよ。出るべきところは出て、胸も豊かになったし、お尻だって丸みを帯びて、男たちが振り返るような脚線美も手に入れた。大学の男どもは嫌というほど視線を送ってくる。
私の顔に、ゆっくりと意地悪な笑みが浮かんだ。名案が閃いたのだ。
(安藤直樹、あの堅物のろくでなし。今のこの「棒切れ」をどう扱うか、見ものじゃない?)
これは面白くなりそうだ。最高にね。自分は特別だという顔をして、冷徹すぎて何にも関心を示さない男……もし誰かがその凍てついた殻を打ち砕いたら? あんな傲慢な野郎にはいい薬だ。それに正直なところ、その挑戦にはゾクゾクするような興奮があった。直樹は触れることのできない塔のような存在――背が高く、馬鹿みたいにハンサムで、完全に孤立している。彼を陥落させることができれば、これ以上の勝利はない。
復讐の計画に夢中になっていて、階下の玄関が開く音に気づかなかった。
「そこで何をしている?」
振り返ると、階段の上に直樹が立っていた。まだ病院のスクラブ姿のままだ。その射るような灰色の瞳が、疑わしげに私に向けられている。長い勤務で黒髪は乱れ、疲れ切っているようだったが、それでもなお、この男は腹が立つほど魅力的だった。広い肩幅が生地を張り詰めさせ、鋭い顎のラインは触れてみたいと思わせるほどだ。
「あ! 直樹、早かったのね」私はしどろもどろになり、心臓が早鐘を打った。やばい、盗み聞きしてたのがバレた?
「変質者みたいに母さんの寝室の前をうろついて」
彼は抑揚のない声で言い、近づいてきた。
「答えろ、佳奈」
パニックになった私は、とんでもなく馬鹿げた行動に出た。彼に飛びかかり、その口を手で塞ぐと、腕を掴んで強引にキッチンへと引っ張っていったのだ。彼は最初こそ驚いて抵抗しなかったが、私の掌の下で筋肉が緊張し、確かな体温が伝わってくるのを感じた。
「シーッ!」
私は彼を廊下の先へ引きずりながら鋭く言った。
「二人は今……取り込み中なのよ。私の言ってること、わかるでしょ」
キッチンに入ると、私は彼の手から口を離したが、後ろには下がらなかった。それどころか、視線を彼の体へと這わせた――鋭い顎のライン、広い肩を包むスクラブ、野性的な魅力を醸し出す無精髭。脈拍が一気に跳ね上がる。今だ。試してやる。
「ねえ、直樹?」
私は声を落とし、ハスキーに囁いた。そっと手を伸ばし、彼の前腕を指先でなぞる。私のタッチに、彼の硬い筋肉がピクリと反応するのがわかった。
「ちょうどあなたのことを考えていたの」
彼は目を細めたが、その息が一瞬止まったのを私は見逃さなかった。
「佳奈、何の真似だ?」
私はさらに身を寄せ、掌を彼の胸、心臓の真上にぴたりと押し当てた。鼓動が速い――薄いスクラブ越しに、私の手に強く脈打つ温かい命の音。彼から発せられる熱気を感じる。病院の清潔な石鹸と、男特有の匂いが混じり合った微かな香り。
「疑問に思ってたんだけど……」
私は顔を上げ、彼の瞳をじっと見つめ、まつ毛を少しだけ震わせた。互いの体は数センチしか離れていない。
「私とこのリンゴ、どっちのほうが……美味しそう(・・・・)に見える?」
ほんの一瞬、その冷たい灰色の瞳に何かが揺らめいた。熱のような、あるいは飢えのような生々しい感情。私は息を呑んだ。彼の視線が私の唇に落ち、さらに下へ、首筋のカーブをなぞり、彼に押し付けられた胸の膨らみに留まる。
だが次の瞬間、直樹は私の手首を掴んだ。乱暴ではないが、力強い拒絶だった。彼は私を一歩後ろへ突き放す。その表情は、いつもの無関心な仮面へと戻っていた。だが、彼の手指が私の肌から離れるのが、ほんの少しだけ遅かったような気がした。
「頭がおかしいんじゃないか」
彼は私を見下すように首を振り、冷たく言い放った。
「俺に近づくな、佳奈」
彼は踵を返し、大股でキッチンから出て行った。残された私は、火照った頬を持て余して立ち尽くしていた。
