第2章

「なんでもないわ」

 摘まみ上げた髪の毛をゴミ箱へ放り捨て、私はコートをクローゼットに収めた。

 高場幸之助はネクタイを緩めながら、何気ない口調で言った。

「そういえば、軽井沢のプロジェクトが決まったよ。週末、視察も兼ねて明季を連れて行ってくる」

 軽井沢——その地名が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。

 五年前、私たちは畳敷きの安アパートに住んでいた。二人で身を寄せ合い、テレビの旅行番組を眺めるのが日課だった。

 幸之助は私の肩を抱き寄せ、画面に映る軽井沢を指差して言ったものだ。

「莉世、金ができたら絶対にここへ連れて行ってやる。最高級のホテルに泊まって、二人で写真を撮ろうな」

 入籍したばかりの頃だ。夕食はコンビニ弁当、ケーキといえば小さなショートケーキが一つだけ。貧しい暮らしだったけれど、私は確かに幸せだった。

 やがて住まいは広くなり、事業も軌道に乗った。だが、それに反比例するように彼は多忙になり、断りの口実ばかりが立派になっていった。

 私が軽井沢の話をするたび、彼は決まって眉間に皺を寄せる。

「莉世、会社は今が正念場なんだ。社長の俺がそう簡単に抜け出せるわけないだろう? お前は物分かりのいい妻だ、理解してくれるよな?」

 確かに、私は理解した。それ以来、軽井沢のことは一切口にせず、疲れることを知らない機械のように彼の事業のために尽くしてきたのだ。

 しかし現実は、そんな私に手痛い平手打ちを見舞った。

 あれほど多忙を極めていた男が、越川明季のためなら、いとも簡単に時間を捻出できるのだから。

「今回の出張だが……」

 幸之助が言葉を濁す。

 私は彼の方を振り向いた。

「スケジュールが詰まっていて、完全にビジネスの話ばかりなんだ」

 彼は視線を逸らす。

「君は体調も良くないし、家で休んでいてくれ。あんな場所に行っても疲れるだけだ」

 私は一瞬沈黙し、小さく頷いた。

「わかったわ」

 幸之助は安堵の息を漏らすと、スマホを手に寝室へと消えていった。

 中から、声を潜めて電話をする様子が伝わってくる。

「明季……チケットは取ったよ……一緒に……」

 私はベランダに出て、一本の電話を受けた。

 相手は軽井沢プロジェクトの中核を担うサプライヤーだ。

「宮坂様、最終送金の件ですが、契約上、本日中に確認を頂く必要がございます」

 私は少し思案してから告げた。

「その支払いですが、一時保留にしてください」

「え?」

「社内の評価プロセスに変更がありました。少し様子を見させていただきます」

「しかし、高場社長の方ではすでに発表会の日程まで確定されておりまして……」

 私はきっぱりと言い放つ。

「資金の管理責任者は私です。私が保留だと言っているのです」

 通話を切ると、すぐに弁護士へ連絡を入れ、離婚協議書の作成を依頼した。

 スマホが通知音を鳴らす。画面を覗くと、社内グループチャットに高場幸之助がメッセージを投稿していた。

『来週月曜、軽井沢プロジェクトのキックオフ発表会を行う。全員正装で出席すること。我が社がハイエンド市場へ進出するための重要な一歩だ。心して掛かるように』

 その文面を見つめ、私は口元を歪めて冷笑した。

 彼は知らないのだ。このプロジェクトを支える資金のすべてを、今や私が握っているということを。

 そして、その手を緩めるつもりなど、もう毛頭ないということを。

前のチャプター
次のチャプター