第2章

宮崎直志の顔色が、すっと陰った。

口元に冷たい笑みを刻み、声は歯の隙間から一字ずつ噛み砕くみたいに落ちる。

「林原知世……俺をホスト扱いか?」

林原知世は唇の端をゆるく持ち上げ、カードをそのまま彼の手に押し込んだ。

「そんな言い方しないで。私たち、ちゃんと積み重ねがあるでしょ」

この先、こんな極上を抱けなくなると思うと――胸のどこかが、ほんの少しだけ名残惜しい。

けれど、今はそれを許してくれる状況じゃない。

「これもあなたを守るため。私の気持ち、わかって」

林原知世はその微かな揺れを一瞬で押し殺し、服を身につけて立ち上がる。長い髪を無造作にまとめ、低い位置でひとつに結んだ。バッグを掴み、ドアへ向かう――出ていく直前、振り返って宮崎直志へ投げキス。

「ブロックしないでね。いつか縁がつながるかもしれないし?」

甘く、あでやかに笑う。

それでも背中は迷いなく――次の瞬間、すぱっと部屋を出た。

宮崎直志の指が、じわじわと握り締められていく。拳に薄く青筋が浮き、目の奥に歪んだ執着が走った。

    ◇

林原知世は階下で車に乗り込む。

発車前に、陸原凛へ短くメッセージを送った。

「直接、実家に行く」

あの『新居』で、あの二人を目にするなんて御免だった。

ここから陸原家の実家までは、車で三十分ほど。

到着すると、林原知世は車を降り、足早に中へ入る。

陸原お爺さんはソファに腰を下ろし、彼らを待っていた。

林原知世は甘く呼ぶ。

「お爺さん」

陸原お爺さんは慈しむように目を細めた。

「知世が来たか」

林原知世はうなずき、行儀よくお爺さんの隣に座る。

陸原お爺さんが手の甲をとん、と叩くように撫でた。

「安心しろ。あいつらが来たら、必ずお爺さんが味方してやる。悔しい思いはさせん」

林原知世は小さく笑って、

「うん。ありがとう」

しばらくして、外から再びエンジン音が響いた。

陸原凛と、白石キキだ。

陸原凛は屋敷で半日も林原知世を待ったのに、彼女は新居に戻らず実家へ直行した。腹の底に怒りを溜めたまま踏み込んできたはずが――ソファで浅く笑う林原知世を見た途端、ふっと意識が止まった。

会うのは二年ぶり。

記憶の中の林原知世は、清楚で可憐で、咲きたての茉莉花みたいだった。

なのに今、目の前の彼女は、長い髪をゆるく垂らし、掌ほどの小さな顔に作り込んだ化粧。艶やかすぎる薔薇――そんな印象が刺さる。

二年で、人はここまで変わるのか。

陸原凛は我に返り、喉を鳴らすように言った。

「お爺さん」

陸原お爺さんは視線を陸原凛に向けず、横の白石キキを冷たく見据えた。

白石キキは淡い色のロングワンピースに、きゅっとまとめたお団子。薄化粧で、いかにも年配受けのする装いだ。けれど声は慎重で、萎縮している。

「お爺さん……」

陸原お爺さんの表情は硬いまま、低く叱りつけた。

「陸原家は、誰でも勝手に上がっていい場所じゃない。そいつを叩き出せ」

陸原凛が即座に白石キキの前へ立つ。

「お爺さん、キキは俺が連れてきた」

陸原お爺さんは冷ややかに一瞥し、

「そいつが出ていくか、お前ら揃って出ていくか。二つに一つだ」

陸原凛の顔が、目に見えて歪む。

ソファの林原知世は、危うく笑い声を漏らしそうになった。

陸原お爺さんは体調が思わしくなく、だからこそ陸原凛を海外から呼び戻したのだ。戻らなければ相続権を剥奪する――そう言われている。

二年の『外』暮らしは、陸原凛にとってもう十分すぎるほど苦かった。

白石キキを連れてきたのだって、きっと「認めてもらえた」と思い込んだのだろう。

堅いはずの愛が、ここで盛大にひっくり返ったわけだ。

白石キキの顔には屈辱がありありと浮かぶ。お爺さんに嫌われるだけならまだしも、林原知世に見られている――それが耐え難い。

それでも無理に笑みを作り、白石キキは言った。

「凛くん……お爺さんとちゃんと話して。私は先に帰るね」

陸原凛は黒い顔のまま、うなずくしかない。

「気をつけて。着いたら連絡しろ」

「うん」

林原知世は心の中で白目を剥いた。

――バカ。

自分は、どうしてあんな男を選んだのか。

陸原お爺さんは杖に両手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。

「今回お前を呼び戻したのは、女の件だけじゃない。会社のことだ」

「ここ数年、利益の柱が落ちてる。今日の午後、まとまっていたはずの案件もいくつか、宮崎家に掻っ攫われた」

「宮崎家?」

林原知世の目に、意外そうな色が走った。

東京で宮崎家を知らない者はいない。

百年の歴史を持ち、頂点に立つ一族。街の経済の三分の二を握っていると言われるほどだ。

陸原家が名門を自負していたとしても、宮崎家と並べば、砂粒みたいなもの。

林原知世は宮崎家について詳しくはない。ただ、夫婦に子どもは一人きりで、溺愛している――そんな話を耳にしたことがある。

一家は徹底して表に出ず、若様の顔は今もほとんど知られていない。

陸原凛は陸原お爺さんを見て、信じられないとでも言うように眉を上げた。

「俺たち、宮崎家とは昔から揉めてもいないはずだろ。なんで急に狙ってくるんだ?」

林原知世の脳裏には、別の『宮崎』がよぎる。

宮崎直志も、宮崎。

同じ姓。

片や権勢の頂点にいる若様、片やバーにいる男――あまりにも隔たりが大きい。

「わからん」

陸原お爺さんは重く息を吐いた。

「明日の夜、競売がある。宮崎家の若様も出席するらしい。お前たち二人で行って、どこで話が拗れたのか確かめてこい。解けるなら解け」

「陸原家が狙っている恩海の案件は命綱だ。今、それを宮崎家に握られている」

林原知世は静かにうなずく。

「わかった、お爺さん」

陸原お爺さんは陸原凛へ顔を向けた。

「もう遅い。今日は帰れ。それと陸原凛――よく覚えておけ」

「あの女とまだ繋がるつもりなら、遺言状を書き直す。財産は全部、知世に残す」

陸原凛は目を見開き、悔しさを噛み殺せない。

「お爺さん、俺は……あなたの実の孫だろ」

その視線は恨めしげに林原知世へ滑る。

この女、いったい何をした? どうやってお爺さんをここまで――。

林原知世は淡々と見返した。瞳の奥に、わずかな挑発を忍ばせて。

陸原凛が白石キキを連れて海外へ逃げたせいで、陸原家は街の笑いものになった。

ここまで耐えたのは、陸原家の力を借りて足場を固めるため。そうでなければ、愚かな実の両親は『偽物のお嬢さま』のために、また何をしでかすかわからない。

もう、黙って見ているだけでは終わらせない。

陸原お爺さんが杖を床に強く突いた。どすん、と重い音が屋敷に響く。

「いいか。ここはまだ――お前の好きにできる家じゃない」

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