第3章

陸原凛は、言い返したい言葉が喉元でことごとく詰まった。

胸の奥に渦巻くのは、怨みと、納得できない悔しさ。

林原知世さえいなければ――自分がこんな何年も苦労するはずがない。

とっくに会社を継ぎ、白石キキと夫婦円満に暮らしていたはずなのに。

「お爺さん、どうぞお早めにお休みください」

林原知世は十分に見物したのか、バッグを手にその場を離れる。

背後から、慌ただしく追いすがる足音。彼女は振り返らない。――腕を、怒りを押し殺した陸原凛に乱暴に掴まれる、その瞬間まで。

林原知世の整った瞳に冷気が満ちる。

「放して」

陸原凛は陰った目で睨み、声を荒げた。

「お前、いったいお爺さんに何を吹き込んだ? あの人、会社をお前に残すとか言い出したんだぞ」

「お爺さんは会社の将来を考えていらっしゃるだけよ。あの人の目は確かだもの。そう言うってことは、私のほうがあなたより使えるって判断したんでしょ」

林原知世の視線に、薄い嘲りが走る。

陸原凛は学生の頃から成績が芳しくない。ここまで致命的に道を踏み外さずに済んだのは、陸原お爺さんが抑え込んでいたからにすぎない。

ましてこの二年、国外で遊び暮らしていた男が、国内の流れについていけるはずもない。

掴まれたままの腕に目を落とし、林原知世は迷いなく足を踏み出した。

今日はヒールだ。陸原凛の甲にぐっと乗せたまま、わざと小さく捻る。

「――っ!」

陸原凛の顔色がさっと変わり、反射的に一歩退く。

「お前……!」

林原知世は涼しい顔のままバッグから除菌シートを取り出し、さっき掴まれた箇所をゆっくり拭った。

その所作が、陸原凛には挑発にしか見えない。

「どういうつもりだ。俺が汚いって言いたいのか? 忘れるな、俺たちは夫婦だろ」

「あなたが綺麗だとでも? お爺さんのことがなかったら、あなたみたいな間抜けとは一言だって交わしたくない」

林原知世はシートを近くのゴミ箱へ投げ捨て、冷ややかに見据える。

「夫婦? 私にとっては、法律で保護されてる“形”にすぎないわ。今が夫婦でも、これから先は――どうかしらね」

踵を返した彼女の前へ、陸原凛がまた立ちはだかる。

「今の、どういう意味だ。離婚でもするつもりか?」

鼻で笑い、皮肉を滲ませた。

「林原知世。お前の狙いくらい分かる。林原家は落ちぶれてるうえに、お前は家でも冷遇されてる。だから陸原家の後ろ盾が要るんだろ」

そして吐き捨てるように続ける。

「お前がどんな卑怯な手を使ってお爺さんに気に入られたかは知らない。だが俺が白石キキを連れて国外へ出たのは――最大の原因はお前だ」

林原知世の表情はぴくりとも動かない。

「自分勝手の言い訳を、もっともらしく飾らないで。そんなこと言われたら、余計に吐き気がするだけ」

視線を細め、氷の刃みたいな声で刺す。

「外でやってる汚いことを、お爺さんの耳に入れられたくないなら――私に近づかないことね」

露骨な脅しだった。

言い終えるや否や、林原知世はそのまま車へ乗り込み、走り去った。

陸原凛が白石キキを連れて国外へ出たとき、お爺さんは生活費をきっぱり断った。ここ数年は、母がこっそり援助していたにすぎない。

林原知世は陸原凛の動きをずっと見張っている。証拠なら、いくらでも揃えられる。

陸原お爺さんのためでなければ、とっくに世間へ流していた。

陸原凛は歯を食いしばったまま立ち尽くし、赤いマセラティが華麗にドリフトして消えるのを見送るしかなかった。

自分の手を見下ろす。

なぜだろう。今回戻ってきてからずっと、胸のどこかがすうっと空になる感覚がある。大事な何かが、指の隙間から静かにすり抜けていったみたいに。

掴もうとしても――掴めたのは風だけだった。

陸原お爺さんは、チャリティオークションの日時と場所、それに招待状を渡してきた。

翌日、夜7時。

林原知世は時間通り会場へ姿を現した。黒のロングドレスは身体の線を包み込み、しなやかな曲線を完璧に際立たせている。

彼女は脇に立つ陸原凛を一瞥しただけで、待たずに招待状を提示して入場した。

今回のオークションは慈善名目で、落札金はすべて貧しい山間部の子どもたちへ寄付されるらしい。

席は中央列。特等席ではないが、悪くもない位置だ。

林原知世は表情を崩さず、会場全体を見渡す。

今日は宮崎家の若様も来る――そんな噂が早くから出ていた。地味な催しのはずが、界隈の名門が大半集まっている。

三々五々に固まっている人々の話題も、若様が来るのかどうか、そればかり。

陸原凛が冷えた顔のまま隣へ来た。

「さっき、なんで俺を待たなかった。これだけ人がいるんだぞ。夫婦仲が悪いって記事でも出たら、お前はそれで満足か?」

林原知世は一度だけ彼を見る。

「今さら仲良く見せかけて何になるの? あなたのやったことなんて、もうとっくに界隈に知れ渡ってる」

陸原凛はまた言葉を塞がれた。

二年ぶりの林原知世は、以前よりもずっと牙が鋭い。ひと言ひと言が、肺の奥に突き刺さる。

「……お前とは争わない」

彼は深く息を吸い、無理やり話を進める。

「今日、百年ものの古董が出るらしいな。もうすぐお爺さんの誕生日だ。あれを落として、贈り物にしたい」

林原知世はどうでもよさそうに頷き、席に腰を下ろした。

今日の本題は、その若様のほうだ。

彼女は何度も人の流れを探ったが、大物らしき姿は見当たらない。

通路側の席で、会場は満席。それなのに、なぜか彼女の右隣だけ空いていた。

背もたれにも、名札が貼られていない。

ほどなくしてオークションが始まった。

司会者が興奮気味に進行を説明し、次々と競りが進む。

林原知世は展示品そのものには興味が薄い。

品がいくつも落札され、やがて陸原凛が狙う品の番になった。

「開始価格は200万!」

「300万!」

「400万!」

「1000万!」

値が一気に跳ね上がる。

陸原凛は番号札を握り締め、歯を食いしばって叫んだ。

「1500万!」

今の彼が動かせる全財産。ここでお爺さんの歓心を取り戻さねばならない。

林原知世は古董に明るくない。それでも、今の額が品の価値を大きく上回っていることくらいは分かる。

彼に気づいた視線が、会場のあちこちから刺さった。

ここまで上がれば赤字だ。競る気のあった者も次々と札を下ろす。

陸原凛はほくそ笑んだ。

「ここまで吊り上げりゃ、誰も奪えないだろ」

司会者が問う。

「ほかに、より高い金額は?」

「……いらっしゃらないようでしたら、このお品は23番のお客様が――」

木槌が振り上がった、その瞬間。

司会者の顔色が変わり、前方を見て目を見開いた。

「1番のお客様、3000万!」

会場がざわめき立つ。

「え、3000万?」

「この古董に? 金の使い方おかしいだろ……」

「若様の札じゃないのか?」

林原知世は、何かを思い当たったようにふいに振り返った。

入口のほうから、黒いスーツの男がゆっくりと歩いてくる。

林原知世の瞳がわずかに見開かれ、表情が固まる。

――彼、なの?

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