第4章

林原知世はぱちりと瞬きをし、どうにかもう少しだけ視界をはっきりさせようとした。

宮崎直志。

――本当に、あいつだ。

爪が無意識に掌へ食い込む。

どうしてここにいるの?

このクラスのオークションだ。陸原家ですら招待状は中ほどの席がやっとなのに、バーのホストが入れるはずが……。

まさか――実はどこかの隠れた名門の御曹司で、庶民の生活を体験しに来ているとか?

そう思った瞬間、彼女自身がその考えを打ち消した。

そんな身分なら、どうしてわざわざ二年も、彼女の「パトロンごっこ」に付き合っていた?

司会者の興奮した声が、再び会場に響く。

「1番のお客様、3000万! 他にいらっしゃいませんか!」

場内が、しん……と静まり返る。

林原知世が宮崎直志の背中を見つめ、ひとり思案していると、もう一人、足早に近づいてきた男が、宮崎直志の隣の空席へどさりと腰を下ろした。

座った途端に脚を組む。動作は気だるげで、全身から絵に描いたような放蕩息子の空気が滲んでいる。

家柄を盾に、怖いものなしで生きてきたタイプの御曹司。

宮崎直志とその御曹司が二言三言、言葉を交わしただけで、さっき芽生えた疑念はあっさり砕けた。

隠れ名門のホストなんて、あるわけがない。見たところ、仕事を変えて、新しい雇い主のボディガードにでもなったのだろう。

御曹司は身体を斜めにして宮崎直志に何か囁き、手を無造作に椅子の背へ回した。親しげでありながら、どこか命令口調の匂いもする。

金持ちの坊ちゃんと、側付きの護衛。林原知世が何度も見てきた光景、そのままだ。

眉が、きゅっと寄る。

やっぱり。数日前、彼女がブラックカードを渡したとき、宮崎直志はそれを平然とゴミ箱へ投げ捨てた。あのときは筋の通った男だと思ったけれど――。

今となっては、別れたあと安定した収入が途切れ、仕方なく用心棒にでもなったのかもしれない。

そう思うと、胸がちくりと痛んだ。

この仕事は楽じゃない。まして、ひと目で短気とわかる放蕩坊ちゃんに付けば、どれだけ理不尽を浴びることになるか。

宮崎直志は冷たそうに見えて、二年一緒にいればわかる。柔には弱いが、剛には反発する。骨の奥に小さな矜持を隠している男だ。

人の顔色をうかがうような仕事は、バーに戻るよりも、よほど堪えるはず。

そう考えたところで、林原知世の瞳の奥に、言葉にできない色が差す。

なんだかんだで、二年間。彼は彼女のそばにいた。

陸原家の胸糞悪い出来事の外側で、息をつける唯一の場所だった。

取引でも、長く続けば情は移る。

それなのに――宮崎直志は、こちらを一度も見ない。

林原知世の視線が遠慮をなくしていっても、気づいていないみたいに、ただ静かにしている。

そのとき、御曹司が競り札を無造作にテーブルの縁へ置いた。

その動作ひとつで、「1」と印字された札が、ぱっと衆目に晒される。

「……あいつが1番の買い手か!」

後方で誰かが息を呑み、視線は再び壇上の骨董へ集まった。

さっきの破格の落札――あれは、あの御曹司の手だったのだ。

情報が広がるにつれ、場の空気が変質する。

「金持ちの出し方は違うな。3000万が遊びかよ」

「だよな。1000万でも高いと思ってたのに、いきなり倍だもんな。金があれば何でもできるってか……」

ひそひそ声が時折、林原知世の耳に刺さり、そのたびに胸が締めつけられた。

金持ちは好き放題できる。なら、その下で働く宮崎直志は、なおさら苦しいのではないか。

そんなとき、後方席から別の囁きが立つ。

「ねえ、見た? 1番の横にいる黒スーツの男、やばいくらいカッコよくない? 経済誌に出てるモデルより映えるし、雰囲気が……」

「カッコいいだけじゃない。何もしてないのに、出てきた瞬間、心臓止まりかけた」

声は大きくないのに、風に乗って林原知世の耳へ届いた。

彼女は改めて宮崎直志を見る。彼は伏し目がちに、オークションのカタログを淡々と捲っていた。

この角度からは、整いすぎた横顔のラインがよく見える。

確かに、息を呑むほどの顔。

林原知世は小さく口を尖らせる。自分が選んだ男だ。見目がいいのは当然だ。

周囲の色めきだった声を聞きながら、陸原凛の顔色は沈みに沈み、今にも黒い雫が垂れそうだった。

自分が落とそうとした瞬間、三倍の値をぶつけられた。狙い撃ちでなくて何だというのか。

「3000万、1回目――」

司会の声が響いた途端、ざわついていた会場がぴたりと静かになる。

陸原凛は歯を食いしばり、競り札を睨みつけた。悔しさが瞳から溢れそうだ。

1500万が、彼の用意できる限界だった。財布は火の車で、3000万どころか、あと100万上乗せするだけでも人脈を総動員して工面しなければならない。

隣の秘書がそっと袖を引き、声を潜めた。

「陸原様、これ以上は予算が……」

陸原凛の喉仏が、ごくりと上下する。結局、握っていた札を下ろした。

背筋を伸ばし、硬い声で言い訳する。

「派手すぎる。お爺さんの好みに合わないかもしれないし……やめておこう」

同時に、競売人が落札を宣言する。

「おめでとうございます、1番のお客様。3000万で落札です!」

オークションは続き、次の品が係員によって運び込まれた。

陸原凛は深く息を吸い、視線を壇上へ戻す。

骨董なんて一つじゃない。今夜は必ず、お爺さんの誕生日祝いを手に入れる――。

やがて布が払われ、硯が姿を現した。

陸原凛は食い入るように細部を見つめ、瞳がすっと細くなる。

これだ。陸原お爺さんの書斎に、ちょうど欠けていた型と同じ……!

「開始価格、300万!」

周囲が様子見で迷う中、陸原凛は札を上げた。

「500万」

相場を超えた値段だが、短期決戦のつもりだった。これ以上、余計な競り合いをさせない。

会場は数秒、沈黙する。競売人が槌を上げかけた、そのとき――。

1番席の方から、くすりと笑い声がした。

「1000万」

低い声なのに、場が一瞬で沸騰する。

陸原凛はばっと振り向き、1番席を睨みつけた。

「……狂ってる!」

思わず声が漏れ、頬が半分、かっと熱くなる。

腹が煮えくり返る。

あの御曹司、完全に自分へ当てつけている――!

壇上で「パン」と槌が鳴り、競売人が宣言した。

「1000万! 1番のお客様、落札です!」

そこから先は、暗黙の蹂躙だった。

陸原凛が何かに目を留め、試しに値を付けた瞬間、御曹司はすぐ倍の額を投げる。

最後には、陸原凛は札を持ち上げる気力すら失っていた。

椅子に深く凭れ、顔色は青くなったり白くなったり。胸の内に鬱憤を溜め込み、惨めさだけが全身に貼りつく。

会場の照明がゆっくり明るくなり、やがて最後の品も落札される。

手ぶらで帰ることが確定し、陸原凛の面子はぐしゃぐしゃだった。

贈り物はもちろんだが、何より――お爺さんから任された役目を果たせていない。

今夜のオークションでは、宮崎家と話をつけるどころか、その宮崎家の若様の顔すら見ていない。

伝説の若様は、深く潜み、掴もうとするほど遠い。次に所在を嗅ぎつけるのは、砂漠で針を探すようなものだろう。

陸原凛は落胆と苛立ちに沈み、ふらつく脚で立ち上がった。声も重い。

「……帰るぞ」

林原知世は彼の後ろについて歩きながらも、視線だけは抑えきれず、宮崎直志の方へ流れた。

彼は御曹司と何か言葉を交わしている。端正な横顔が照明に切り取られ、やけにくっきり見えた。

その一瞬で、胸の奥がこそばゆくなる。まるで何かに引っかかれたように。

会場の出口に差しかかったところで、陸原凛は苛立ち紛れに電話を弄っていた。

白石キキに愚痴をこぼすつもりなのだろう。林原知世はそこに付け込むように、彼の袖を軽く引いた。

「トイレ行ってくる。ここでちょっと待ってて」

陸原凛は振り返りもせず、手をひらひらさせる。

「早くしろよ」

林原知世は身を翻し、来た方向とは逆へ歩き出した。宮崎直志の方へ、少しずつ距離が縮まっていく。

会場の円柱を回り込んだ、その瞬間――。

林原知世は足を止めた。

次の瞬間、手首が大きな手にがしっと掴まれる。

悲鳴を上げる暇もなかった。

そのまま引きずられるように、脇の木立へと連れ込まれていった。

前のチャプター
次のチャプター