第5章

背中が木肌にぶつかった瞬間、林原知世は全身の産毛がぞわりと逆立った。

バッグを握り締め、声を上げようとして――顔を上げた、その先に。

見慣れた黒い瞳。

宮崎直志だった。

オークション会場で見せていた、あの近寄りがたい冷たさがわずかに薄れ、いま彼は彼女の前で、普段の「生きた」温度を纏っている。

相手が宮崎直志だと分かった途端、張り詰めていた神経がすとんと落ちた。さっきまでの狼狽も、じわじわ引いていく。

林原知世は咳払いして、少し居心地悪そうに言った。

「ちょっと、どういうこと? 歩くのに音もしないの。心臓止まるかと思った」

宮崎直志は答えない。木に凭れたまま、黙って彼女を見ている。

しばらくして、彼は手を伸ばし、風に乱れた彼女の耳元の髪をそっと整えた。

「俺が会場に入ってからずっと、こっちばっか見てたよな。そんなに急いで――俺に会いに来たんじゃないのか? それとも、1号の買い手でも追いかけてた?」

口調は軽い。けれど視線の奥には、火がちらついていた。

林原知世は図星を刺され、頬が熱くなる。顔を背けた。

「ただ、ぶらぶらしてただけ」

「ぶらぶらで、1号の買い手が出ていく通路まで来る?」

宮崎直志が喉の奥で笑い、伏し目がちに彼女を見下ろす。からかうように。

「ほんとに何もない? じゃあ……あいつと30分も一緒にいたら、昔の知り合いが恋しくなってさ。俺ともう一回、より戻したくなったとか?」

「違う!」

「より戻す」という言葉に耳の先まで熱くなり、林原知世は反射的に首を振って否定した。

彼の目を避け、手のひらサイズのバッグを探って、一枚のキャッシュカードを取り出すと、有無を言わさず彼の手に押し込んだ。

「変なこと言わないで。これ、持ってて」

また、カード。

宮崎直志の瞳から温度が消えた。受け取らず、ただ視線を落として彼女を見る。

「勘違いしないで。……囲いの金とかじゃない」

林原知世は誤解されたくなくて、急いで言い足す。声の調子も真面目になる。

「あの御曹司、どう見ても短気でしょ。あなたが本当にそばで用心棒なんてしてたら、いつ八つ当たりされるか分からない。入ってる額は大したことないけど、少しの間くらいは凌げるはず」

「用心棒……?」

林原知世の言葉を聞いた宮崎直志が、眉をわずかに上げた。胸の奥に、奇妙な熱がゆっくり広がっていく。

宮崎直志が固まったのを見て、林原知世は「図星を突かれて気まずいのか」と勘違いしたらしい。さらにカードを彼の掌へ押し込む。

彼女はまっすぐ彼の目を見た。声音は誠実で、逃げない。

「取引は終わったけど、二年も一緒にいたんだし、赤の他人ってわけじゃないでしょ。……友達として、ちょっと助けるだけ」

それでも断られたら困る。林原知世は畳みかけるように言う。

「受け取らないなら……私のこと、友達だと思ってないってことになる」

林原知世が宮崎直志に対して、ここまで強い言い方をするのは珍しい。

二年、そばにいた男だ。別に特別な感情がなくても、理不尽に傷つくのは見たくない。

宮崎直志はカードを指先で挟んだまま、何も言わない。底の見えない瞳が、何を考えているのか読ませなかった。

その視線に林原知世は落ち着かなくなり、髪を撫でつけて言う。

「じゃあ、私、行くね。夫が外で待ってるから」

踵を返した、その手首が――ぐっと掴まれた。

次の瞬間、強い力に引かれ、彼女の身体は硬い胸に落ちる。

宮崎直志の腕が腰を締め上げる。逃げようとしてもびくともしない。

抗議の言葉が喉まで出かかったのに、その前に――熱い息が降りてきた。

宮崎直志が、唇を塞いだ。

林原知世は目を見開き、頭の中がぶわっと白くなる。反射的に手を上げ、彼の胸を押した。

けれど男の筋肉は岩みたいに硬い。どれだけ力を込めても、押し返せない。

「や……だ……」

途切れ途切れの声が唇の隙間から漏れる。しかしすぐに再び塞がれ、喉の奥で小さな声がくぐもった。

宮崎直志のキスは、上手すぎた。最初は乱暴なくらい強引だったのに、いつの間にか、絡みつくように甘くなる。

身体の芯がふにゃりとほどけていく。

抵抗はどんどん弱くなり、胸を押していた手も頼りなく滑る。

それどころか、宮崎直志がさらに深く侵してきた瞬間、林原知世は本能で、わずかに顎を上げてしまった。

気づいた途端、恥ずかしさで穴があったら入りたい。

二年の「相性」が、身体に刻まれている。嫌だと思っても、身体は嘘をつけない。

半ば拒み、半ば受け入れるその態度が、宮崎直志の渇きに火を注いだ。

彼は腰を抱く腕をさらに強め、キスは深く、深く――息ができないほどに。

林原知世の意識がとろけかけ、ほとんど宮崎直志にもたれかかった、そのとき。

森の外から、足音が近づいてきた。

「林原知世? いるのか? トイレ行ったきり、なんでこんなに長いんだよ」

陸原凛――!

林原知世は全身がびくりと跳ねた。蕩けた視界が一気に冴える。

彼女は力任せに、まだ腰を押さえている宮崎直志を突き放した。頬は赤いまま、呼吸だけが荒い。

「……声、出さないで」

林原知世は息だけで宮崎直志に告げる。

ここで陸原凛に見つかったら、彼女が陸原家で積み上げてきたものは、全部水の泡だ。

足音は、茂みのすぐ向こうで止まった。左右を見回す気配。苛立ちが言葉から滲む。

「トイレ程度で、なんでこんなに遅いんだよ。林原知世、わざと俺を苛つかせてんのか?」

近い。近すぎる。

林原知世は息を殺し、背中を木に押しつけた。

宮崎直志の腕は、まだ彼女を囲ったまま。

林原知世が震えるほど緊張しているのを見ると、宮崎直志は離すどころか、わざと耳元へ顔を寄せた。二人にしか聞こえない声で囁く。

「なあ。こいつが入ってきて、俺たちがこうしてるの見たら……どんな顔すると思う?」

林原知世はぞくりと震え、反射的に彼の腰を思い切りつねった。目で「ふざけるな」と警告する。

足音がまた近づき、心臓が吊り上がる――。

息が詰まりそうになった、その瞬間。

陸原凛のスマホが鳴った。

「……何だよ。……分かった、今出る」

通話を切ったあと、陸原凛は一拍だけ逡巡したが、結局、茂みの奥へ踏み込まずに踵を返し、足早に去っていった。

足音が完全に遠ざかってようやく、林原知世は大きく息を吐く。

彼女は宮崎直志を押しのけた。頬は今にも血が滲みそうなほど赤いのに、顔を上げる余裕がない。俯いたまま、乱れた服を黙々と整える。

「……行く」

声が掠れていた。

宮崎直志の表情を確かめることもできず、林原知世はそのまま早足で木立を抜けた。

宮崎直志は立ち尽くしたまま、彼女が消えた方を見送る。

唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。名残を舐めるみたいな笑み。

――宴会場の入口。

陸原凛は階段の下で電話をしていた。林原知世がようやく現れると、眉をひそめて通話を切る。

「トイレ行くだけで、なんでそんなに時間かかるんだよ」

林原知世は近づき、距離のある声で答えた。

「中が混んでて。少し並んだだけ」

そう言って彼の脇をすり抜けようとした、その手首が突然、強く掴まれる。

陸原凛の視線が彼女の口元に落ち、訝しげに言った。

「……お前、口どうした? 口紅、ぐちゃぐちゃじゃねえか」

林原知世の胸が、ひゅっと縮む。

前のチャプター
次のチャプター