第6章

「さっき水を飲んだときに擦れたのかも」

林原知世は反射的に唇をきゅっと結び、すぐに視線を逸らすと、バッグから鏡と口紅を取り出した。

「ちょっと直してくる」

そう言いながらも、瞳の奥をよぎった一瞬の動揺を、陸原凛は見逃さなかった。

氷を含んだような視線が、彼女の口元に釘付けになる。声に滲む怒気は、今にも溢れ出しそうだった。

「水だと? ふざけるな。こんなに均一に落ちてるのは、水じゃない。キスされた跡そのものだろ」

語尾が跳ね上がる。眼底に、言葉にできない種類の狂気が宿った。

「教えろ。さっき、誰に会ってた?」

「陸原凛……私を取り調べでもしてるつもり?」

手首を掴まれてじんと痛い。林原知世は眉をひそめ、力任せに手を引き抜いた。見上げた目は、冷えた刃のよう。

「信じようが信じまいが、水で擦れただけ。納得できないなら監視カメラでも確認すれば?」

唇の端に、薄い嘲りが浮かぶ。

このオークションに集まるのは、金と権力の持ち主ばかりだ。陸原凛の立場じゃ、監視室に辿り着く前に追い返されるのがオチ――そんなことは、本人も分かっている。

案の定、陸原凛は言葉に詰まった。

青ざめた顔を見て、林原知世は内心で白ける。

「用がないなら、さっさと行くわよ。お爺さんが待ってる」

そう言い捨て、彼女は先に歩き出した。

背中を見送る陸原凛の胸に、火がさらにくべられる。顔色はどす黒く沈み、今にも雫が落ちそうなほどだった。

一歩で追いつくと、彼は拒む彼女を無視して、もう一度手首を掴んだ。さっきよりも強く、骨が軋みそうな力で。

「その手は通用しない。俺が信じると思うか?」

視線が彼女の全身を舐めるように走り、少し開いた襟元で止まる。

「襟をやけにきっちり整えてるな。まさか……見られたくない跡でもついてるのか? 俺に見せられないような」

その言葉だけで胃の奥がむかついた。林原知世は必死に身をよじる。

「陸原凛、離して! 頭おかしいの?」

「いいか、林原知世。お前が何を考えてようと、お前が陸原家の奥様である限り、大人しくしてろ」

ぐっと距離を詰め、声を落とす。むき出しの脅しが、耳に突き刺さる。

「俺たちは夫婦だ。これは揺るがない。俺を裏切るような真似をしたら――それ相応の代償を払わせる」

襟に手が伸びる、その直前だった。

林原知世は拳を握りしめ、全身の力を乗せて彼の頬を殴りつけた。

「……ッ!」

鈍い音。陸原凛の顔が横に跳ね、頬がみるみる赤く腫れ上がる。

殴られるとは思っていなかったのだろう。二拍遅れて、彼の目が獣みたいに吊り上がった。

「……俺を殴ったのか?」

その瞬間、林原知世は手首を引き抜いた。

痺れる手をぶん、と振ってから睨み返す。

「その汚い物差しで、誰も彼も測らないで。みんながみんな、あなたみたいに気持ち悪いわけじゃない」

吐き捨て、痛む手首を押さえながら踵を返す。これ以上、絡む気はない。

路肩に停まっている陸原家の車へ一直線。ドアに手をかけた、そのとき――横から風が巻いた。

次の瞬間、陸原凛が彼女を乱暴に押しのけ、自分が先に後部座席へ滑り込む。

バン、と重い音を立ててドアが閉まった。

「出せ!」

陸原凛が運転手に怒鳴る。

よろけた林原知世は踏ん張り、眉を寄せた。

「陸原凛、どういうつもり?」

咄嗟に窓を叩く。

「人として最低じゃない? ここ、陸原家までどれだけ距離があると思ってるの。私、どうやって帰れって言うの?」

「お前にこの車は勿体ない。出せ、家へ戻れ」

冷えきった声。運転手が躊躇すると、陸原凛はさらに怒号を重ねた。

「今すぐ出せ! 止まったら明日から来なくていい。工場にいるお前の甥っ子も一緒に荷物まとめて消えろ!」

運転手の背筋がぴん、と伸びた。

窓が少し下り、彼は驚愕したままの林原知世へ、申し訳なさそうな目を向ける。

「奥様……申し訳ありません」

その言葉と同時に車が発進し、あっという間に闇へ溶けていった。

走り去るテールランプを見つめ、林原知世は拳を握り締める。

夜風が肌を刺し、ぶるりと身が震えた。このまま立っていたら、風邪を引く。

スマホを取り出し、配車アプリを開いて何ページも更新する。

だがここは会員制クラブが並ぶ一帯で、立地は偏っている。電波も途切れ途切れで、画面はずっと読み込みのまま。

オークションの客もほとんど帰り、流しのタクシーが通る気配もない。

五分更新しても、配車はつかない。

林原知世は小さく息を吐き、遠くの建物を見上げた。やるせない。

最初から自分で車を出しておけばよかった。今はもう、前にも後ろにも店一つない。帰る手立てがない。

風がさらに強まり、彼女は反射的に上着をきつくかき合わせた。

少しでも大通りへ出ようと歩き出した、そのとき――背後から眩しいヘッドライトが差し込んだ。

思わず身を避ける。

次の瞬間、黒いロールスロイスが、すっと彼女の前で止まった。

窓が静かに降り、宮崎直志の横顔が覗く。

「乗って」

短い言葉。視線が彼女の赤くなった手首に落ち、わずかに止まる。

「ここ、タクシー捕まらない」

林原知世は固まった。高級車の艶を見て、後部座席の気配を探るように視線を動かす。

「これ……あの御曹司の車?」

宮崎直志が否定しないのを見て、ますます分からなくなる。

「勝手に乗ってきたの? バレたら……あの人、すごく機嫌悪くなるでしょ」

警戒と遠慮が入り混じった表情を見て、宮崎直志の目に、ほんのわずかな笑みが掠めた。

ただし声音は淡々としている。

「怒らないよ」

それ以上は説明せず、顎で助手席を示した。

「乗りな。ずっとここで風に当たってるわけにもいかない」

林原知世は彼の確信めいた態度と、人気のない周囲を見比べた。冷えが骨に染み、足首もじんわり痛む。

数秒迷った末、助手席のドアを開ける。

「……助かる。ありがとう」

小さく告げて乗り込むと、ドアが閉まった瞬間、車内の静けさだけがやけに大きく感じられた。

車が滑るように走り出しても、どちらも口を開かない。

林原知世は唇を噛み、さっき林の中で交わしたキスが勝手に脳裏へ蘇る。

数日前まで、息が絡む距離にいた相手。今こうして二人きりだと、呼吸の仕方さえ居心地が悪い。

やがて車は、陸原家の門前で静かに止まった。

ほっと息をつき、シートベルトに手を伸ばした、そのとき。

宮崎直志がふいに身を乗り出し、こちらを見た。

礼を言うより早く、彼は気のない調子で問いを投げる。

「ここまで来て……上がっていけって誘わないの?」

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