第7章
その言葉が出た瞬間、林原知世の動きがふっと止まった。
片手は車のドアハンドルに掛かったまま。ほんの少し逡巡して、何かを計るように黙る。
「……いいえ」
林原知世は横を向き、宮崎直志を見た。華やかな顔立ちに余計な感情は乗らない。
「陸原家のほう、いろいろ立て込んでるの。あまり都合がよくなくて」
適当な口実で、さらりと流す。
終わらせると言った以上、きれいに断つべきだ。
もともと彼とは、利害が一致しただけの取引。期限が来たなら、体面を保って退く。それだけ。
「そう?」
次の瞬間、宮崎直志が距離を詰めた。雪松の香りに、かすかな煙草の気配が混ざって押し寄せる。
「じゃあ、これは?」
言い終える前に、彼は身を屈めて唇を重ねてきた。
林の中で交わしたキスとは違う。どこか乱暴で、なのに理由のわからない悔しさが滲んでいる。
林原知世は息を呑み、心臓が勝手に一拍抜けた。頬に熱が一気に集まる。
数秒後、宮崎直志が唇を離す。声はひどく掠れていた。
「……今は? それでも都合悪い?」
林原知世は勢いよく顔を背けた。耳の先まで真っ赤で、今にも滴りそうだ。
彼の手を乱暴に振りほどき、車のドアを開ける。
「ふざけないで」
今度は、彼は止めてこなかった。
林原知世は逃げるように車を降り、陸原家本家の門へと早足で向かう。
門がどん、と重く閉まってようやく足を止めた。手の甲で熱い頬を押さえる。
胸の奥の、説明のつかない疼きは――すぐに押し潰した。
二年続いた付き合いが突然終わる。それに体が慣れていただけ。少しだけ、調子が狂っただけだ。
林原知世と宮崎直志の関係は、ここまで。
……
一週間後。陸原お爺さんの誕生日の祝宴。
本家の庭は提灯や飾りで彩られ、門前には高級車が隙間なく並んでいた。
招待状が届くのは、名のある者ばかり。普段は滅多に姿を見せない財界の大物まで、念入りに祝いの品を用意して顔を出している。
玄関口で、林原知世は月白の旗袍をまとい、客を迎えていた。
もともと整った曲線が、旗袍に引き立てられて際立つ。息をのむほど、潔く艶やかだ。
顔なじみの年配が来ると、彼女はすっと前に出て、落ち着いて微笑む。
「福山お爺さん、ようやくいらした。お爺さん、さっきから福山お爺さんのことばかり話してましたよ」
来たばかりの頃の、ぎこちなさも従順さもない。声は自然で、表情は明るく泰然としている。所作の一つひとつに品がある。
陸原家で二年、身につけた術だ。
そのとき、玄関のほうがざわついた。
林原知世が目を上げると、陸原凛が白石キキの手を引いて入ってくるところだった。
鼻で笑う。
この場に、堂々と浮気相手を連れてくる。陸原家の顔を土足で踏みつける気か。
陸原凛の顔色は冴えなかった。
あのオークションの日、彼は結局何一つ手に入れられず、骨董品市場で玉の彫り物を見繕って祝いの品にしたらしい。細工は悪くないが、競りに出ていた本物の古美術と比べれば――格が違いすぎる。
正厅では、陸原お爺さんが旧友たちと談笑していた。
陸原凛の姿が視界に入った途端、お爺さんの眉がわずかに寄る。
「来たなら、座って大人しくしてろ。余計なことはするな」
露骨な嫌悪に、陸原凛の顔が引きつった。
反論できるはずもなく、白石キキを連れて隅の席へ腰を下ろす。
少し離れたところでは、林原知世が陸原お爺さんの代わりに客を捌き、目まぐるしく動き回っていた。
陽が髪に落ちる。ざわめく会場の中で、明るく端正な顔立ちはやけに目を引いた。
客がほぼ揃い、席順に着いたところで、シャンデリアの灯りがふっと落ちた。
陸原お爺さんが、きりっとしたスーツ姿でゆっくり壇上へ上がる。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。長話は抜きにして、まずは一杯、皆さまへ」
拍手が湧き、空気が熱を帯びた、そのとき――。
宴会場の入り口が小さく騒がしくなった。
客たちが一斉に振り向き、陸原凛もつられて視線をやる。
見えた顔に、彼の眉間が一瞬で深く刻まれた。
なんで、こいつが――!?
先頭の男は濃いグレーのスーツ。あのオークションで、執拗に彼の札をさらっていった御曹司だ。
林原知世も音のほうへ目を向け、御曹司の隣にいる人物を見た途端、瞳が揺れた。
宮崎直志――どうしてここに。
二人は入口に立つだけで場を支配した。警備の男たちですら、反射的に背筋が伸びる。
目ざとい客が、すぐに囁き合う。
「白石家の若様、白石沢人じゃないか。どうしてここに?」
「白石家、先月南のエネルギー案件を丸ごと飲み込んだって話だ。近頃は宮崎家とも付き合いが深いし、勢いは宮崎家と張るくらいで……」
大げさではない。
白石家は東京の古い名門で、根は陸原家よりさらに三代は深い。握っている資源の桁が違う。陸原家がどれほど背伸びしても届かない場所にいる一族だ。
その白石沢人が、なぜ陸原家の誕生日宴に?
囁きが耳に入るたび、陸原凛の喉が詰まった。遅れて押し寄せる恐怖。
あの日、1番の買い手として彼を遮り続けた相手が――白石沢人だったのか。
陸原お爺さんの胸にも不安が走る。
白石家は名門中の名門だが、陸原家とは圈が違う。事業も重ならず、数十年ほぼ交流がない。
白石沢人が、なぜ突然。
だが、お爺さんは場数が違う。驚きは一瞬で消え、温和な笑みに塗り替えられた。
「白石くんが来てくれるとは、陸原の顔が立つ。君のお父上は、お変わりないかね」
白石沢人は数歩で壇下まで来ると、礼を崩さず、姿勢をきっちり低く置いた。
「親父は元気ですよ。陸原お爺さんも、暇があったらまた親父と将棋でも指してやってください」
そう言いながら、背後の護衛から箱を受け取って差し出す。
「今日は、友人の頼みで一つお届け物を。ご健勝とご長寿をお祈りします」
言葉は隙がない。
自分がなぜ来たのかは語らず、「友人の代理」という形で来訪の理由だけを成立させ、詮索の糸口をすべて断ち切る。
お爺さんは箱を受け取る。ずしりとした重みで、だいたい察しはついた。
だが、白石沢人の真意を掘る余裕はない。白石家の敷居は高すぎる。若様が自分から来た――それだけで、千載一遇だ。
白石家は宮崎家と深い。白石家を足掛かりにできれば、伝説の宮崎家若様に取り次いでもらえるかもしれない。
宮崎家が奪った協業を返してもらえさえすれば、陸原家の事業は息を吹き返す。
お爺さんは視線を陸原凛へ向けた。
「白石様に、酒をお注ぎしてこい。きちんと話をしろ」
陸原凛は内心では反発でいっぱいだったが、その目の圧に逆らえない。仕方なく杯を取る。
主卓へ進み、無理に口角を持ち上げる。
「白石様……先日のオークションでは失礼いたしました。まずは一杯、失礼します」
白石沢人はすぐには杯を上げず、むしろ隣の宮崎直志をちらりと見た。どこか面白がるような目つき。
陸原凛の手が空中で固まる。笑みが崩れかけた。
息を吸い、もう一言重ねようとした、そのとき。
宮崎直志が、不意に口を挟んだ。
「お前が、陸原凛?」
声は大きくない。だが生まれつきの圧が、空気ごと押し潰す。
宮崎直志は陸原凛を見上げ、ほどよく首を傾げた。疑問の形を装いながら、刃だけを的確に当てる。
「どこかで聞いた名前だな……女を連れて二年も逃げて、陸原家を東京中の笑いものにした――その男だったか?」
