第2章 逃げようなんて思ったことはない
菅野真理が路地を抜けた瞬間、別荘の門前に並ぶ黒塗りの車列が、鋭い刃のように視界へ刺さった。
心臓がぎゅっと縮み、胸から飛び出しそうになる。
——来た。ほんとうに。
呆然としている耳元へ、菅野彩乃の甘ったるい作り声が滑り込んでくる。
「……あの子が……言ってました……死んでも、あなたには嫁がないって……」
血が一気に頭へ上る。胸の奥で怒りがどろりと煮え、息が詰まりそうだった。
菅野真理は深く息を吸い、迷いを捨てる。一直線に、あのロールス・ロイスへ向かった。
足取りは速い。ほとんど駆け足だ。雨が視界を滲ませるのに、それでも彼が車を降りた瞬間だけは、はっきり見えた。
黒いコート。松みたいに真っ直ぐな立ち姿。息を呑むほど整った顔には、サングラス。
胸を締め付けていた安堵が、失ったものを取り戻した確信と混ざり合い、抑えきれない熱となって溢れ出した。目の奥が熱くなり、涙が不意に湧いた。雨粒に混じって頬を伝い落ちる。
——そうだ。この時の彼は、少し前の事故のせいで間欠的に視力を失っていた。強い光を避けるための特製サングラス。
それでもいい。生きていてくれさえすれば。どんな姿になっていようと、真理には関係ない。
彼の前まで歩み寄る。近い。肌を刺すような冷たい気配が、彼の周囲に張り詰めているのが分かるほどに。
気配を察したのか、サングラスの奥の顔が、わずかにこちらへ向いた。
「嘘です!」
かすれた声が雨に散り、それでもくっきり届いた。周囲の視線が一斉に集まる。
「私、あなたと結婚したくないなんて言ってない! あなたに嫁ぎます!」
菅野彩乃の表情が、凍りついた。幽霊でも見たみたいに、驚愕と困惑が張りついている。
——本当なら石橋航平と遠くへ逃げたはずの菅野真理が、どうしてここにいるのか。想像すらしていなかったのだろう。
石橋結翔が、わずかに息を止めた気配がした。薄い唇が、淡い弧を描く。
菅野真理は顔を上げる。彼は今、見えていないかもしれない。それでも構わない。サングラスの奥の瞳を、瞬きもせず見つめた。濃いレンズを越えて、心の底まで覗き込みたいみたいに。
「逃げるつもりなんて、最初からありません」
声は震える。けれど芯は折れない。
「ずっと、あなたを待ってました」
その言葉はこの場にいる全員へ向けた宣言であり、石橋結翔への誓いであり、そして——前の人生で置き去りにした後悔への決別だった。
菅野彩乃がようやく我に返り、顔色を悪くして食い下がる。
「真理! 航平様ともう行ったじゃない! あなた、自分で言ったのよ。目が見えない人なんて、死んでも嫌だって! 結翔様の悪口もいっぱい……!」
必死だ。菅野真理の「罪」をここで確定させたい。視線が泳ぎ、焦りが滲む。
菅野真理は腹の底で冷たく笑い、菅野彩乃を真っ直ぐ射抜いた。口調には棘が混じる。
「菅野彩乃。私に出て行ってほしかったんでしょ。そうしたらあなたが、石橋家との婚約を奪えるから」
言い切ってから、さらに畳みかける。
「石橋航平とあんたが裏でやってた汚いこと、私が知らないとでも? 結翔を貶して、私を煽って、引き離そうとしたのはあんたたちよ」
そして、菅野真理は石橋結翔へ向き直る。さっきまでの刺は引っ込め、必死に誠実さを差し出した。
「結翔。私、今まで……人の言葉を信じて、あなたを誤解してました。でも、もう分かった。婚約を果たします。すぐにでも、あなたに嫁ぎたい」
菅野彩乃は顔を歪めながらも、泣きそうな作り顔で被害者を演じる。
「真理……! どうしてそんなひどいこと言うの。航平様を慕ってたのはあなたじゃない。なのに私に汚い水を——」
石橋結翔は黙って聞いていた。サングラスの奥で、何かが静かに揺れた気配がする。
噂では、自分を避けて逃げ回る婚約者。なのに今は、ここまで正面から争っている。——意外、なのだろう。
そのときだった。
路地の奥から石橋航平が駆け出してきた。目の前の光景を見た瞬間、顔が一気に強張る。なにより、石橋結翔の前に立つ菅野真理を見て、血の気が引いたように。
菅野彩乃が、助けを求めるように必死で合図を送る。
石橋航平は石橋結翔の顔色を窺いながら、取り繕った声で懇願した。
「結翔さん……俺と真理は本気なんです。どうか、俺たちを……!」
そして菅野真理へ、縋るように叫ぶ。手を伸ばし、近づこうとする。
「真理! 言ってくれよ! お前が好きなのは俺だろ!」
伸びてきた手を見ただけで、胃がむかつくほどの嫌悪が湧いた。
菅野真理は迷いなく、その手を叩き落とした。
乾いた音。
石橋航平が呆然とする。その視線を切り捨て、菅野真理は石橋結翔の隣へ移動し、腕にしがみつくように絡めた。
男の腕は硬い。上等なコート越しでも、内側に潜む力が伝わってくる。
石橋結翔の身体がわずかに強張った。けれど、振りほどかない。
菅野真理はそのまま寄り添い、石橋航平を見下ろした。軽蔑を隠さないまま、言い放つ。
「石橋航平、身の程をわきまえて。私の婚約者は石橋結翔。私が嫁ぐのは、この人だけ。……前は私が馬鹿だっただけ。今日から、あなたとは一切関係ない」
石橋航平の表情が、完全に沈んだ。菅野彩乃も顔色を何度も変え、作り笑いが崩れかける。
石橋結翔が、ふっと顎を引いた。
菅野真理を「見た」わけではないはずなのに。——それでも、そこに探るような気配と、ごく薄い驚きが混ざっているのが分かった。
短い沈黙のあと、石橋結翔は何も言わず、空いているほうの手で近くのボディーガードへ小さく合図をした。
そして菅野真理を伴い、車へ向かう。
ドアが開く。
彼がわずかに身を寄せ、低い声が耳を打った。
「乗れ」
菅野真理は迷わず身をかがめ、車内へ滑り込む。
彼もすぐに乗り込み、ドアが閉まる。外の雨音と喧騒は、分厚い防音ガラスの向こうへ追いやられ、微かな残響さえ届かなくなった。
車内には、落ち着く香りが満ちていた。彼から漂う匂いと同じ。
菅野真理はまだ彼の腕を掴んでいる。まるで命綱みたいに。
石橋結翔は引き抜かなかった。ただ静かに座り、唐突に口を開く。
「さっき……あいつと行くつもりだっただろ」
問いではない。淡々とした断定。
菅野真理の心臓が、一瞬止まったかと思った。次の瞬間、狂ったように脈打ち、胸を叩く。
足元から冷気が這い上がり、指先が凍る。
——知ってる。やっぱり、全部。
菅野真理は勢いよく顔を上げた。サングラスが表情を隠し、感情が読めない。ただ、目に見えない圧だけが重くのしかかる。
「わ、私……」
喉がからからに乾き、声が引っかかる。頭が必死に回転する。
どう答えればいい。どうすれば——この人の前で、もう二度と取り返しのつかない言葉を口にしないで済む?
