第3章 奥様が来るなり騒ぎを起こす
否定は悪手。言い逃れなど、なおさら愚かだ。石橋結翔みたいな男の前では、どんな小細工も――かえって自分の首を絞める。
菅野真理は腹を括ると、勢いよく彼の胸に飛び込み、その引き締まった腰にしがみついた。冷たい気配を纏ったコートへ頬を押しつけ、泣き声混じりに言う。
「……はい! 認めます。私、前は愚かで……石橋航平に惑わされてました。でも、後悔したんです。最後の最後で、はっきり分かった。あの人とは行けないって!」
顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こう、サングラスの奥の瞳を見据えたまま、彼の垂れた手を掴み――有無を言わさず、自分の胸元へ押し当てた。
「聞いて……感じるでしょう? どれだけ私が目が曇ってたとしても、今この瞬間から、私の中にいるのはあなた一人だけ。石橋結翔、私は――あなたしか認めない!」
掌の下で、心臓が暴れるみたいに跳ねている。ひとつ、またひとつ。後悔と決意を叩きつけるような鼓動。
石橋結翔の身体が、目に見えて強張った。ここまで露骨に来るとは思っていなかったのだろう。
布越しに伝わる熱。激しい脈動。
車内に、言いようのない艶めいた沈黙が生まれた。菅野真理の荒い息だけが、やけに大きく聞こえる。
数秒後、石橋結翔は勢いよく手を引き抜いた。ほんのわずか、焦りが混じったような動き。
「……分かった」
淡々とそれだけ言い、顔を窓のほうへ向ける。サングラスが、感情のすべてを遮断した。
菅野真理は胸の奥で息を吐く。彼の冷たく整った横顔を慎重に窺うと、さっきまでの息苦しい圧が、少しだけ薄れた気がした。
信じた……のだろうか。
車は沈黙のまま、山の中腹にあるカングランへと入っていく。
屋敷は広大で、雨の夜でさえ圧するような威容と、鉄壁の警戒が伝わってきた。
車が屋敷の正面に停まると、すでに連絡を受けていた高木さんが、使用人二人を伴って廊下で待っていた。
石橋結翔が先に降りる。菅野真理も慌てて続き、半歩後ろを離れずに追う。
「結翔様」
成田さんが一歩進み、恭しく頭を下げた。四十代の中年男。皺ひとつないスーツに、きっちり撫でつけた髪。表情は硬い。
彼の視線が菅野真理へ滑り、値踏みの刃と、ほんのわずかな侮りが滲む。
「菅野さん」
軽く会釈だけ。声は淡々として距離がある。
石橋結翔は足を止めず、氷みたいな命令を落とした。
「成田。住む部屋を用意しろ」
それだけ言うと、秘書を伴って屋敷の奥へと消えていく。急ぎの用件があるのだろう。
成田樹は「承知しました」と応え、菅野真理へ向き直る。口元には作り笑い。目は笑っていない。
「菅野さん、こちらへ」
豪奢なホールを抜けたが、階上――石橋結翔の部屋のある方向ではない。人の気配が薄い廊下へ折れ、成田は一枚の平凡な扉の前で止まった。
「菅野さん、こちらがお部屋です」
扉が開く。中は整った客室ではあるが、本邸の煌びやかさに比べれば明らかに格が落ちる。菅野家の自室よりさえ簡素だ。地位の高い使用人、あるいは一時の客に宛がう部屋――そういう匂いがした。
掃除中の使用人が二人、目を合わせ、わずかに口元を歪める。嘲りの気配だけが残る。
菅野真理は一瞬で悟った。これは無言の牽制だと。
前の人生なら、心が折れたまま飲み込んでいた。だが、今度は違う。
菅野真理は中へ入らず、静かな目で成田を見た。
「成田さん……間違ってません?」
成田樹は表情を崩さない。
「菅野さん、何をおっしゃいます。採光も風通しも――」
「私は、石橋結翔が自分で連れてきた婚約者です。石橋家の未来の奥様」
菅野真理は言葉を遮り、唇の端だけで冷たく笑った。
「使用人用の部屋を宛がうのは、結翔の顔に泥を塗るつもりですか。それとも、石橋家そのものに?」
一歩踏み込み、声に圧を乗せる。
「結翔が、あなたの“軽んじ方”を知ったらどうなるか……高木さんとして、この先も務まります?」
成田樹の笑みが、ついに崩れた。顔色が険しくなり、視線がわずかに揺れる。損得を測っている。
やがて、ぎこちない笑顔を貼り直した。
「……失礼いたしました。私の配慮が足りませんでした。上階に、より良い客室がございます。ご案内します」
今度は階段を上り、寝室エリアへ。成田は彫刻の施された木扉の前で止まった。だが、口調だけがどこか曖昧だ。
「菅野さん、こちらは見晴らしも良く、静かで……いかがでしょう」
菅野真理は室内を一瞥し、胸の内で冷笑した。
客室ではない。石橋結翔の書斎の隣――休憩室だ。執務空間と地続きの場所。
石橋結翔は、許可なく書斎へ近づくことすら嫌う。それを隣室に住まわせる?
馬鹿だと思っているのか。あるいは、わざと罠を張っているのか。
菅野真理はすぐには突かず、意味深く成田を見た。
この執事は、前の人生から妙な敵意を向けてきた。あの時は気にする余裕がなかったが……今度は、きちんと調べる必要がある。
わざと迷うふりをする。
「……大丈夫かしら? あそこは結翔の書斎のようだけれど」
「ご心配なく」
成田が即座に被せる。誘導するような声。
「静かで、休まれやすい部屋です。どうぞ一度お入りになって。必要があればお呼びください」
そう言って自ら扉を押し開け、軽く身を引いた。これで、彼女が勝手に入ったことにできる――そんな算段が透ける。
菅野真理はそれ以上訊かない。
「じゃあ、ここで」
そのまま足を踏み入れた。
部屋の設えは確かに上品だった。だが眺めている暇はない。腕時計に視線を落とす。時間は――頃合い。
成田はもう石橋結翔へ報告に行ったはずだ。
案の定、廊下から重い足音。続いて、氷みたいな声が落ちた。
「……なぜ、彼女がここにいる」
直後、成田の、慌てたようでいて計算された声。
「結翔様! 私は確かに申し上げました。隣は結翔様の書斎ゆえ、むやみに近づくなと……!」
「ですが、なぜか……入ってしまわれて。私の説明が至りませんでした。どうか、お叱りください!」
菅野真理は、室内で冷たく息を吐く。
数言で責任を切り離し、彼女を「忠告を無視して禁域に踏み込んだ女」に仕立て上げる。
ついてきた使用人たちは皆、頭を垂れている。だが目は、面白がる色を隠していない。
結翔様の書斎は禁区。
以前、許可なく近づいた者の末路が悲惨だったことは――誰もが知っている。
石橋結翔は扉口に立ち、黙って菅野真理を見下ろした。サングラスの奥の視線は読めない。それでも、無言の圧だけが一気に広がり、空気が凍る。
一同が息を殺す。
大胆不敵な婚約者を――結翔様がどう処するのか。見世物を待つ沈黙が、屋敷の廊下に張りついていた。
