第4章 芝居はもう十分か?

菅野真理は瞬時に、悔しさを堪えるような表情を浮かべた。石橋結翔へと身を寄せると、そのまま大胆に彼の逞しい腕を掴む。

不意に伝わった体温に、石橋結翔の身体がぴくりと固まった。だがすぐに我に返り、よりいっそう探るような目で菅野真理を見据える。

――こいつ、いったい何をするつもりだ。

使用人たちも、菅野真理がここまで堂々と石橋結翔に近づくのを見て「立場を狙って頭がおかしくなった」とでも言いたげだった。だがそれ以上に衝撃だったのは、石橋結翔が拒まなかったことだ。

「あなた……成田さんが、私をここで休ませるように手配していたなんて知りませんでした。だって私、この部屋に来たことすらなくて……どうしてこうなっているのか、私にも分からないんです」

甘ったるい呼び方に、石橋結翔の眉がわずかに寄る。

わざと気を引いているのか。それとも別の狙いがあるのか。

菅野真理は顎を上げた。潤んだ瞳が、何の前触れもなく視界に飛び込んでくる。

石橋結翔の本心はサングラスの奥に隠れていたが、それでも菅野真理には分かった。彼の周囲の空気から、刺すような冷気が少し引いたのを。

「あなた……前にも成田さんに伺ったんです。ここはあなたの書斎に近いから、私がここで休むのは不適切じゃないかって。でも成田さんは『問題ありません』って。安心してここにいていいって、そう言いました」

その瞬間、成田樹の顔色が変わった。

「結翔様! 私は決して、そのような……表と裏で違うことなど!」

次いで菅野真理へと視線を向け、目の奥に険が走る。

「菅野さん。初めてカングランにいらして不慣れなのは事実でしょう。だからこそ出来る限り手厚くお迎えしています。ですが、何もかも私のせいにされては困ります」

成田樹は拳を握りしめる。石橋結翔が女の告げ口を真に受けるとは、到底思えなかった。

「結翔様、どうか私を信じてください」

すると菅野真理は、腕を絡めたまま静かに言った。

「あなた……成田さんが長くここで働いていることは分かっています。でも私はあなたの婚約者です。いずれは一緒に暮らす相手。そんな私が、どうして焦って無理を通そうとするんですか」

言い終えると、さらに腕をきゅっと抱き寄せる。

石橋結翔は短く結論を下した。

「今日の件はここまでだ。彼女の部屋は改めて手配しろ。同じことは二度と起こすな」

成田樹ははっと顔を上げた。

――甘く見ていた。たった数言で、結翔様をこうも動かすとは。

成田樹は菅野真理を客室へ案内し、渋々といった口調で告げる。

「菅野さん、ひとまずこちらでお休みください。必要なものがあれば私に」

菅野真理は落ち着いたまま、甘く微笑んだ。

「ありがとうございます、成田さん」

室内を確かめていると、扉がノックされる。

「菅野さん。お友達だと名乗る菅野さんがお見えです」

菅野彩乃――何の用だ。

「真理……」

菅野真理は苛立ちを隠さず部屋を出て、階下へ降りた。ソファに座る石橋結翔と目が合い、すぐに逸らす。

菅野彩乃は石橋結翔がいると気づくや否や、急に猫を被ったようにしおらしくなる。

「真理……本当に結翔様のお家に住むなんて。航平と約束してたでしょ? こんなの、二股じゃない」

菅野真理は冷たく返した。

「彩乃。結翔は私の婚約者よ。言い方には気をつけて」

菅野彩乃は信じられないという顔で菅野真理を見た。何かが違う。だが理由が言葉にならない。

「じゃあ、航平との気持ちは捨てるの?」

菅野彩乃は石橋結翔の前へ進み、胸が痛むというふうに眉を寄せる。

「結翔様……真理は気が弱いから、言えないこともあるんです。でも私、友達として、真理の本音が分かるんです」

「どうか……どうか真理を解放してあげてください。二人を、航平と真理を、成就させてあげて」

菅野真理はこめかみを指で押さえ、眉をひそめた。

「菅野彩乃。私がまだ何も言ってないのに、結翔に向かって勝手なことを並べないで」

言葉に棘が混じる。

「本当に私の親友なら、どうして婚約者の前でそんなこと言うの? 私を結翔に嫌わせたいの?」

「真理、あなたは航平が好きでしょう? そんな心にもないこと――」

菅野真理の目が、氷みたいに冷えた。

「だったらもう一回言う。私と石橋航平は、絶対にない」

淡々と、突き放すように。

「そんなにいい男なら、あなたが付き合えばいいじゃない。あとでご祝儀くらい包んであげる」

菅野真理は石橋結翔の隣へ腰を下ろした。肩を寄せ、掌を彼の手の甲へそっと重ねる。甘く微笑み、顔を覗き込む。

「私の男は一人だけ。結翔だけよ。分かった?」

石橋結翔の表情が一瞬止まる。

――ますます読めない。こいつは何を狙っている。

「真理……お前……」

菅野彩乃は言葉を失っていた。

菅野真理は追い討ちのように、さらりと言った。

「菅野さん、もうお帰りください。私と夫は、寝るところですから」

菅野彩乃は面目を潰し、それでも石橋結翔の前で騒ぐ度胸はなく、そそくさと退散した。

人がいなくなるや否や、石橋結翔は菅野真理の手を払いのけた。

「芝居は終わりか?」

サングラス越しの視線は淡々としていて、熱を感じさせない。

菅野真理は真っ直ぐ見返す。

「芝居じゃない。全部、本当のことよ」

本気の眼差しだった。心臓の中身を差し出すような、逃げ道のない真剣さ。

石橋結翔は唇を結び、何も言わずにその場を離れた。

成田樹がトレーを持って、すぐ後ろを追う。菅野真理の横を通り過ぎたとき、鼻を刺す薬の匂いがした。

――結翔の目の薬……?

菅野真理の胸が、どくんと強く跳ねた。成田樹の手元、トレーの上の薬へ視線が吸い寄せられる。

封じ込めていた前世の記憶が、いきなり鮮明に蘇った。

それは遥か未来のこと。石橋結翔の視界が取り返しのつかない形で侵食された際、彼が長年常用していた処方の中に『相容れない二種の薬材』が混入していたことが発覚したという記憶だ。

だが、発覚した時にはもう遅かった。

日々の蓄積が互いに作用して生じた毒性が、じわじわと彼の身体を蚕食し、視覚機能のすべてを奪い去っていたのだ。

真実を突き止めたときには、どうにもならなかった。

冷や汗が背中を一気に濡らす。

――こんなに早くから、仕掛けられていたの?

書斎。

成田樹はトレーを持ち、石橋結翔の傍らに恭しく立つ。

「結翔様、お薬を替えるお時間です」

「……ああ」

石橋結翔はサングラスを外し、成田樹の手に任せた。五分ほどで作業が終わる。

「結翔様、処置が完了いたしました」

石橋結翔は試すように目を開く。だが、視界は白く滲んだままだ。寝室の灯りはほぼ点いているのに、光の塊があるだけで、輪郭が掴めない。

苛立ちが、瞬時に沸騰する。

「……どうしてだ。こんなに続けて、一向に良くならないじゃないか!」

怒りのままに手を振り、薬を叩き落とす。トレーががしゃんと鳴った。

成田樹は身を縮めながら言葉を選んだ。

「結翔様……目のことは焦りは禁物です。医師も、結翔様の症状は稀だと。時間をかけて――」

石橋結翔の放つ冷気がさらに鋭くなる。成田樹は喉を鳴らし、それ以上踏み込めなかった。

「ドン!」

二階の書斎から響いた破裂音と、石橋結翔の押し殺した怒声に、菅野真理は凍った記憶から引き戻された。

彼女は勢いよく顔を上げる。

――だめ。今回は、絶対に止める。

菅野真理はすぐ階段を駆け上がり、書斎の扉の前で深呼吸した。声に心配を滲ませる。

「結翔……入ってもいい?」

返事を待たず、扉を押し開ける。

書斎は荒れていた。散らばったものの中に石橋結翔が立ち、サングラスの下の輪郭は硬く張り詰めている。怒りが空気を押し潰すように重い。

彼は声の方を向き、氷みたいに言い放った。

「誰が入れと言った。出ていけ!」

菅野真理は退かなかった。視線で床を素早く確認し、それから成田樹へ向き直る。

「成田さん、先に外へ出てください。私が結翔と話します」

成田樹は迷った。だがここで逆鱗に触れるのも避けたい。結局、頭を下げて引き下がる。

「……菅野さん、お願いいたします」

扉が閉まる。

石橋結翔の声は、さらに冷たかった。

「出ろ」

菅野真理は一歩前へ出た。

「結翔。目のことで苦しいのは分かってる。でも、こんなに長く使っても効かないなら……」

言葉を切り、慎重に選ぶ。

「薬材の組み合わせによっては、一見合っているようで、実は薬性が裏で打ち消し合うことがあるって聞いたの。長く続けるほど効かないだけじゃない。病状を遅らせて、取り返しのつかない傷を残すこともある」

言い終えた瞬間。

書斎の空気が、音を失った。

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