第7章 囚われる
空気はますます張り詰め、二人が睨み合ったまま一歩も譲らない。ついに菅野父の堪忍袋の緒が切れた。
「誰か。お嬢様を部屋へ。休ませろ」
菅野真理は立ち上がり、使用人に付き添われて二階の自室へ向かった。
部屋に足を踏み入れた瞬間——外から鍵が掛けられる音。
ガチャリ。
菅野真理は扉に背を預け、大きく息を吸った。
……やっぱり。結局、これ。
窓辺へ歩き、カーテンを指先で少しだけ持ち上げて外を覗く。案の定、菅野家の正門にはボディーガードが増員されていた。正面突破なんて、できるわけがない。
石橋結翔に連絡しなきゃ……。
その頃、カングラン。
会社から戻ったばかりの石橋結翔は、屋敷の静けさに眉を寄せた。いつもと違う。
「……彼女は?」
成田樹が一歩下がり、恭しく答える。
「結翔様。菅野さんは朝早く、運転手に送らせて菅野家へ戻られました。以降、まだお戻りではありません」
菅野家——。
石橋結翔は唇の端を押さえるように引き結び、目の奥に薄い冷えが差した。
もう逃げるのか。ここから。……それとも、俺から。
【ブブッ……】
ポケットのスマホが震える。石橋結翔の瞳が沈み、端末を取り出すと——表示された名前に、指先が止まった。
菅野真理。
ちょうどいい。どういう言い訳をするつもりか、聞いてやる。
通話を受ける。だが返ってきたのは、沈黙だけだった。
「……」
菅野真理は目の前の連中を嫌悪の眼差しで睨みつけ、スマホを握り潰しそうなほど強く掴んだ。
「いい加減にして。出さないだけじゃ飽き足らず、ここで好き放題して……今すぐお父さんに言ってもいいのよ」
菅野母と菅野彩乃が視線を交わし、口元だけで笑う。
「真理、それは違うわ。私たちはあなたのためにしてるのよ。どうして『乱暴してる』なんて言い方になるの?」
菅野彩乃が目を細める。菅野真理のスマホ画面が一瞬、明るくなったのを見逃さなかった。
「……誰に電話してたの?」
菅野真理は即座に通話を切り、氷のように言い放つ。
「出ていって。ここは私の部屋よ」
菅野彩乃が噛みつこうとしたところで、菅野母が手首を掴んで制し、首を横に振った。
家の中の小競り合いで済むならいい。だが、本気でやらかせば石橋結翔に顔向けできない。菅野父のほうも収拾がつかなくなる。
まだ目的を果たしていない以上、今は真理を追い詰めすぎるべきじゃない。
「……じゃあ、休みなさい」
部屋を出ると、菅野彩乃が苛立ちを隠さず吐き捨てた。
「お母さん。あれ、絶対どこかに通報してた。もし相手が結翔様だったら——」
「いい。結翔様みたいな方が、あの子に心を割くわけないでしょ。余計なこと考えないの」
菅野母は、扉の前に立つ使用人へ視線を向ける。
「真理は休むそうよ。食事も運ばなくていいわ」
三日でも五日でも飢えさせれば、あの口も少しは大人しくなるはずだ。
石橋結翔は暗い画面になったスマホを見据え、迷いなく命じた。
「車を回せ。菅野家へ行く」
菅野家。
黒いマイバッハが邸宅の前で止まる。石橋結翔は降りるなり、躊躇なく中へ入っていった。
リビングでは菅野父、菅野母、菅野彩乃の三人が世間話をしていたが、空気が変わったのを感じて顔を上げる。
目が合った瞬間、菅野父が勢いよく立ち上がった。
「結翔様。どうしてこちらへ……」
「お知らせくださればよかったのに。夕食も済ませてしまいまして、十分なおもてなしが——」
石橋結翔はその言葉を聞くでもなく室内を一瞥し、求める姿がないのを確かめると、淡々と切り出した。
「真理は?」
菅野母と菅野彩乃の喉が鳴る。
「結翔様、真理はもう休んでおりますが……ご用件は?」
「ええ、母親の私が至らなくて。真理は少し家が恋しくなったみたいで、しばらくこちらで過ごすと言いまして。頃合いを見て戻るでしょうし——」
「寝てる?」
石橋結翔は薄い唇で冷えた笑みを作り、嘘を途中で断ち切った。
「起こせ」
そのままソファに腰を下ろす。長い脚を組み、気怠げな姿勢のまま圧だけは剥き出し。まるでここが自分の支配下であるかのように。
「今、話がある」
菅野父は石橋結翔を敵に回せない。菅野母に目配せする。
「何をしてる。真理を呼べ」
菅野母は言い訳もできず、重い足取りで二階へ上がった。
しばらくして、菅野真理が菅野母の後ろから階段を降りてくる。
石橋結翔の姿を捉えた瞬間、菅野真理の瞳には、抑えきれない切なさと、すがるような熱が宿った。彼女は小走りに歩み寄り、当然の権利のようにその腕へ身体を預ける。
「結翔……」
ほとんど聞き取れない嗚咽が混じる。
石橋結翔の腕がわずかに動く。だが、振りほどきはしない。
サングラスの奥の視線が、赤く滲む目元へ落ちる。張り詰めていた冷気が、ほんの少しだけ緩んだ。
菅野父が即座に取り繕う。
「真理、結翔様がわざわざ来てくださったんだ。大事な話があるに違いない。お前も戻るなら、ひと言——」
菅野真理は父の言葉を黙殺し、石橋結翔を見上げた。
その視線が、菅野父の手首の腕時計に触れた瞬間——菅野真理の瞳孔がぎゅっと縮む。
母の形見。
自分がデザインし、母が生前いちばん大切に身につけていた一本。
……露骨な脅し。
菅野真理は下唇を噛み、爪が掌に食い込むほど握った。
息を吸い直し、石橋結翔へ視線を戻す。目尻の赤みが増す。
屋根裏には、母の遺したものがまとめて置かれている。自分が手を入れていなければ、あいつらはとっくに捨てていた。
「結翔……お母さんの形見が、まだこの家にあるの」
声は小さく、必死に縋る響き。
「……取り返したい」
そして父へ向き直る。
「お父さん。私、ただお母さんの遺したものを返してほしいだけ」
菅野父の顔が引きつる。石橋結翔の無言の圧に晒され、火で炙られているみたいだった。無理やり笑みを作り、いい父の仮面を貼りつける。
「真理、何を言うんだ。父さんが『返さない』なんて言ったことがあるか? あれは……お前のために、ずっと大事に預かっていたんだ。ただ、渡すにはまだ時期が——」
言葉を切り替え、石橋結翔へ向けて慎重な口調になる。
「結翔様。実は菅野グループにも、近ごろ前途有望な案件がございまして……石橋グループとぜひご一緒できればと。とはいえ、きっかけがなく……」
さらに都合よく畳みかける。
「協業が叶えば、彼女の母親の遺品も『ただの古い物』ではなく、きちんとした節目として真理に渡せます。私としても、そのほうが安心でして。結翔様、いかがでしょう」
リビングは針が落ちても聞こえる静けさに沈んだ。誰もが息を止める。
数秒後、石橋結翔の低い声が落ちる。感情の波は一切ない。
「いいだろう」
菅野真理がはっと顔を上げ、信じられないものを見る目で石橋結翔を見た。
菅野父は一気に表情を明るくし、胸のつかえが落ちたように笑う。
「ありがとうございます、結翔様! ご安心ください。真理が嫁いだ後、亡き母の品は一つ残らず、そのまま返します。結翔様のような婿を迎えられるとは、菅野家の——」
その言葉が菅野真理には、苦いものを噛み潰したように胸の奥へべったり貼りついた。
菅野彩乃は嫉妬で理性が吹き飛び、甲高い声を挟む。
「真理! 形見を取り返すために結翔様を利用するのは勝手よ。でもあなた、航平様と会うために戻ったんでしょ! それで今さら結翔様の前でいい子ぶって……結翔様を何だと思ってるの!」
石橋結翔の周囲の空気が、さっきまでの緩みを消して一気に凍りついた。
刺すような圧が、彼を中心に広がっていく。
