第9章 漢方薬
書斎の空気は凍りつき、三人は呼び出されて事情を問われていた。
成田陽菜は悔しさで声を震わせ、涙声のまま——それでも挑発するように菅野真理へ視線を投げる。
「結翔様、私はただ、自分の仕事をしただけです。どうして菅野さんは、そこまで私を目の敵にするんですか」
自分は石橋結翔にとって特別だ。そう信じて疑わない甘えた調子が、言葉の端々に滲んでいた。
菅野真理は内心で冷たく笑い、表情には出さない。
彼女は迷いなく石橋結翔の傍へ行き、他の二人など視界に入っていないかのように、自然な手つきで肩へ指を置いた。力加減は程よく、親密さだけが際立つ。
二人の距離の近さを見せつけられ、成田陽菜は怒りで頭が白くなる。
「あなた、自分で言ってたじゃない。使用人の部屋を点検しに行ったって。じゃあ、私も使用人だって言うの?」
菅野真理はゆっくりと息を吐き、わざとらしく困ったように笑った。
「結翔、ひとつだけ。あの子の言うこと、少しだけ当たってるの。私、心が狭いのよ」
成田陽菜と成田樹二人の顔色がみるみる青くなるのを、視界の端で捉える。菅野真理は肩を揉み続けたまま、淡々と告げた。
「だから提案するわ。……成田陽菜には、出て行ってもらったら?」
成田陽菜が堪えきれずに噛みつく。
「菅野さんが結翔様の婚約者でも、まだ正式に嫁いだわけじゃないでしょう? 本気で結翔様の頭に乗って命令できるとでも思ってるんですか!」
菅野真理は即座に、傷ついた顔で石橋結翔を見上げる。肩に置いた手を引こうとする仕草まで添えて。
そのぬくもりが消える寸前——。
石橋結翔はサングラス越しに顔をわずかに傾けた。冷気が一気に落ちて、室内の温度が下がったように感じる。
「菅野真理は、俺の婚約者だ」
声が低い。
「彼女を裁く権利は、他人にはない」
成田陽菜は雷に打たれたみたいに固まった。追い出せとは言われていない。だが、この露骨な肩入れだけで、頬が焼けるように痛い。
どうして。
救ったのは自分のはずなのに。
「結翔様……」
成田樹に目で制され、成田陽菜は唇を噛んで黙る。最後に菅野真理へ怨念を込めた視線を刺した。
石橋結翔は成田樹へ向けて言い捨てる。
「成田樹。菅野家は保護施設じゃない。主と従が分からないなら、自分で出て行け」
成田樹は慌てて頭を下げ、繰り返し詫びた。さらに成田陽菜まで引っぱり、形だけでも謝罪させる。石橋結翔の不興を買わぬよう、先手を打って成田陽菜を叱り、給料も差し引いた。
二人が出て行くと、菅野真理は石橋結翔の腕に抱きつき、甘えるようにぶんぶん振った。
「あなた。やっぱり私の味方だったのね」
小悪魔めいた笑顔を見た瞬間、石橋結翔の胸に残っていた苛立ちが、不思議と薄れる。自覚もないまま、声が少しだけ柔らかくなった。
「目的は達しただろ。出て行け」
「じゃあ、お仕事の邪魔はしない。頭が痛くなったら、また呼んでね」
菅野真理は満足げに身を翻し、軽やかに去った。
夕方、使用人に呼ばれて、菅野真理は食事のために階下へ降りた。
リビングへ入った途端、石橋結翔が慌ただしく玄関へ向かう背中が見えた。秘書が後ろに張りつき、表情は硬い。
立ち尽くした菅野真理に、使用人が小声で言う。
「会社の急用です。結翔様はこういうことが多いので……慣れてくださいね」
席に着いたところで、成田陽菜がスープの器を運んで来て、菅野真理の前へ差し出した。
「菅野さん、昼間のこと……私、間違ってました。大人の対応で許してください。これ、さっきキッチンで2時間かけて煮込んだんです。飲んでみませんか?」
——急にへりくだる。
菅野真理の中で警鐘が鳴る。
器は受け取った。だが飲まずに、静かに自分の前へ置くだけ。
「……菅野さん、鶏スープ、苦手ですか?」
成田陽菜の視線が一瞬だけ揺れた。
菅野真理は薄く笑い、含みを持たせる。
「自分の立場を忘れず、余計なことをしなければ……今日のことは水に流せるわ。ただ、私は食事の最初に別のものを口にしたいの。スープから入ると血糖値が上がりやすいから」
ちょうど使用人が紅茶を運んできた。
「菅野さん、ご注文のアールグレイです」
「ありがとう」
菅野真理は受け取り、ひと口だけ啜る。
そのとき——紅茶に視線を落とした彼女は気づかなかった。成田陽菜の口元に、かすかな勝ち誇りが浮かんだことを。
「では、ごゆっくり」
食後、菅野真理は部屋へ戻り、湯に浸かって気を落ち着けようとした。
ところがバスルームへ入ってほどなく、ふわりと視界が揺れる。理由の分からない眩暈。脚が抜け、冷たいタイルの壁に手をついた。
(……何、これ)
とにかくシャワーだけでも、と気力で身体を動かす。浴衣をきつく締め直し、バスルームを出た。
ぼやけた視界の先——ベッドの縁に、浴衣を羽織った見知らぬ男が座っていた。胸元はだらしなくはだけ、肌が覗いている。
恐怖が心臓を掴み、全身の血が冷えた。
「……誰。どうして私の部屋にいるの!」
叱責した声は、薬のせいでどこか柔らかく掠れる。
男は立ち上がり、にやつきながら一歩、また一歩と詰めてくる。濁った目に、粘つく欲が灯る。
「菅野さん、ほんと美人だなぁ!」
伸ばされた手が頬に触れようとした瞬間、菅野真理は反射的に身を引いた。
「やめて! 触らないで!」
「出て行け!」
前世の記憶が一気に押し寄せる。汚れた手が自分の肌に触れる想像だけで、殺されるより苦しい。身体が震え、息が詰まる。
「出て行けっ!」
震える指でスマホを掴み、石橋結翔へ発信する。
長い呼び出し音。——そして、無機質な切断音。
繋がらない。
もう一度。さらにもう一度。
返ってくるのは、沈黙だけ。
「無駄だよ、美人さん」
男は指を鳴らし、じわじわと追い詰め、菅野真理を壁際へ追い込む。
菅野真理は咄嗟にスマホを投げつけた。だが男は容易くかわし、獣じみた笑みを深める。
「気が強いな。ベッドじゃどうなんだ?」
「来るな! 触るな! 手を出したら、石橋結翔が殺す!」
声は掠れ、喉が焼ける。胸元を守る腕に力を込めるが、身体が言うことをきかない。薬と恐怖で、関節が凍りついていく。
男は笑い、次の瞬間、手首を掴んで乱暴に引いた。
ふわり、と柔らかなベッドへ叩きつけられる。
起き上がろうとした菅野真理の上へ、男の重みがのしかかった。脚を押さえつけられ、首元へ生臭い息がかかる。吐き気がこみ上げる。
薬が回りきり、力が抜けていく。
まるで屠殺を待つ羊。
屈辱の涙が頬を伝い、冷や汗と混じってこめかみを濡らした。それでも心の奥に、かすかな希望だけが残る。
その頃——車の中。
後部座席で石橋結翔はこめかみを押さえた。理由もなく、心臓が嫌な跳ね方をしている。胸の奥がざわつく。言いようのない不安。
「結翔様」
運転席の秘書が慎重に言った。
「会議中、スマホが何度か震えていました。菅野さんからの着信のようです」
石橋結翔の眼が沈む。すぐ折り返す。
だが受話口から聞こえたのは、長く冷たい呼び出し音——出ない。
不吉な予感が、確信に変わっていく。
石橋結翔は眉間を深く刻む。
「飛ばせ。もっとだ」
部屋の中。
霞む視界の端で、スマホ画面に「石橋結翔」の文字が点滅しているのが見えた。死にかけの人間が掴む藁。最後の一本。
助けを呼びたいのに、身体は泥の塊みたいに動かない。指一本すら持ち上がらない。喉から漏れるのは、砕けた息だけ。
「チッ……無駄だって言ってんだろ。俺の、お嬢様」
汚らしい手が太腿へ滑るのを感じ、菅野真理の胃がひっくり返る。
彼女は下唇を噛みしめた。血の味が広がる。痛みで、ぎりぎりの意識を繋ぐ。
「……やめ……ろ……」
掠れた三文字。
男はそれすら楽しむように、さらに興奮していく。
(また……この屈辱を味わえって?)
(生まれ直しても、逃げられないの?)
そのとき——。
「誰の許しを得て、俺の女に手を出している」
