第1章

結婚記念日のその日、鈴木青美は夫の早村謙介が浮気していることに気づいた。

最上階のペントハウス。床から天井まで届く窓の前に立ち、高倍率の双眼鏡を覗き込む。映ったのは、早村謙介と若くて美しい少女がホテルへ入っていく姿――そのまま大統領スイートへと消えていくところだった。

少女は白いキャミソールワンピースをまとい、細い身体つき。眉目には世間知らずの無垢がにじんでいる。

「その女のために、謙介さんは結婚記念日まで忘れたの? 最低じゃない。ほんとクズ!」

親友の林原稲美が隣で、奥歯を噛みしめるように吐き捨てた。

鈴木青美は何も言わず、ただ静かに見ていた。

少女がシャンパンを自分のスカートにこぼし、きゃっと声を上げて、泣きそうな顔で早村謙介を見上げる。

(どうせ、苛立つはず)

早村謙介はいつも清冷で自制の効いた男だ。こういう甘えた芝居が何より嫌いで、妻の自分に対してさえ容赦がなかった。

――なのに。

次の瞬間、現実は彼女の頬を容赦なく打った。

早村謙介が片膝をつき、スーツのポケットからハンカチを取り出す。少女の裾の染みを、宝物でも扱うみたいに丁寧に拭き取っていく。その手つきは、ありえないほど優しかった。

少女は嬉しそうに笑うと、今度はケーキのクリームを指に少しつけ、早村謙介の高い鼻梁にちょん、と乗せた。

早村謙介は怒るどころか、指先で少女の鼻先を軽くこすってみせた。

その瞳に宿る甘さと慈しみは、鈴木青美が一度も与えられたことのないものだった。

鈴木青美はそっと目を閉じる。

かつて彼の書斎で、ネクタイを整えようとして、机の書類を少し崩してしまっただけで、早村謙介は顔を凍らせて「出ていけ」と言った。

(優しさがないんじゃない。……私に向ける優しさがないだけ)

再び目を開けると、早村謙介は立ち上がってカーテンを引いた。あとは想像するまでもない。

鈴木青美の瞳は、底なしの静けさに沈む。

「身元、わかった?」

淡々と林原稲美に問う。

林原稲美は少女の資料をタブレットで示した。

「名前は早村瑞子。早村家が十五年前に引き取った養女だって。謙介さん、昔からこの妹を溺愛してたみたい」

少し言いづらそうに間を置き、それから続ける。

「早村お婆さんが二人の関係に気づいて激怒して、瑞子を海外に五年送ったって話。最近帰ってきたばかりなのに……もう、また謙介さんと」

鈴木青美は眉をひそめた。

五年。

自分が早村謙介と結婚して四年。会ったことがないのも当然だ。

(目の前で堂々と不倫して、得をさせる気はない)

彼女は向きを変え、林原稲美からタブレットを受け取る。そこには早村瑞子の詳細が並んでいた。

「帰国した途端、謙介さんが別荘を用意して、最新のスポーツカーも贈って、グループ傘下のギャラリーまで任せたって」林原稲美が彼女を見る。「青美、どうするの?」

鈴木青美は画面をスライドさせながら、静かに言った。

「……成就してあげる」

ただし、早村謙介が早村家の財産をきちんと分ける気があるなら、だ。

自分が必死で支えてきたものを、あの養女にくれてやるつもりはない。

鈴木青美は感情を整え、早村謙介に電話をかけた。

何度も呼び出し音が鳴って、ようやく繋がる。受話口の向こうから、抑えた荒い息を混ぜた声。

「……何だ」

鈴木青美は睫毛を伏せた。

「今日は結婚記念日だよ。夕飯、帰ってくる?」

短い沈黙。

返事を待つ前に、電話越しに甘えた声が割り込んだ。

「謙介お兄ちゃん、なにしてるの? ひとりでベッドにいるの、つまんない……」

早村謙介の声が一瞬だけ揺らぎ、すぐ冷えた。

「こっちは用がある。切る」

ツー、ツー、と無機質な音。

いつも通りの決断。切り捨てるみたいに、余白ひとつ残さない。

「ありえない! ベッドって……」林原稲美が毒づきかけ、鈴木青美の顔色に気づいて慌てる。「青美、怒らないで」

鈴木青美は薄く笑う。

「怒ってない。あんなクズのために怒る価値、ないでしょ」

そして目を細め、冷たい光を走らせた。

「稲美。ホテルに入るとこの映像、コピーして。あとで使う」

「任せて!」

鈴木青美はそれ以上何も言わず、夜の窓外を見た。

四年前――エーゲ海の古い教会。早村謙介は神父の前で誓った。永遠に愛し、忠誠を尽くすと。

今となっては、滑稽でしかない。

口では平然としていても、胸の奥は血を流すみたいに痛んだ。

帰宅すると、鈴木青美はパソコンの前で離婚協議書の草案を書き始めた。そこへ林原稲美から映像が届く。

早村謙介が早村瑞子へ向ける、あの情のこもった目をまた見た瞬間、鈴木青美は動画を閉じた。

四年、夫婦だった。放蕩息子だった早村謙介を、金融界のエリートへ押し上げるまで、彼女がどれだけ支えたか――誰も知らない。

最も苦しい時期、彼の企画書を仕上げるために徹夜を重ね、胃から出血したことさえある。

会社が軌道に乗り、これからようやく楽になれると思った矢先に、裏切り。

裾の汚れを拭うあの優しい横顔が、勝手に脳裏に浮かぶ。

(ああいう、柔らかくて甘いのが好きなんだ)

自分の思考に、鈴木青美はわずかに眉を寄せ、吐き気に近い恥ずかしさを覚えた。

――その時、部屋のドアが静かに開いた。

早村謙介が帰ってきた。

オーダーメイドの黒いスーツ。立ち姿はさらに逞しく、彫りの深い顔立ちと暗い瞳。かつて多くの女がその容姿に群がったのに、彼が選んだのは鈴木青美だった。

だからこそ、自分は世界一幸せだと信じた。

結局は――誰かのための花嫁衣装を縫っただけ。

早村謙介はゆっくり近づき、背後に立つ。鏡越しに、シルクのネグリジェの下の曲線を見て、腰に腕を回した。顎を首筋に寄せ、低い声で囁く。

「こんな時間まで起きてるのか。俺を待ってた?」

言い終える前に、肩へ細かなキスが降り注ぐ。乱れた呼吸。

その口が、同じように早村瑞子にも触れたのだと思うと、胃がひっくり返る。

鈴木青美は腕を振りほどき、氷のような目で見上げた。

「早村様、体力ありますね。さっき運動したばかりなのに、まだ足りない?」

早村謙介が一瞬固まり、すぐ笑う。

「ああ、昼の電話のことか。あれは妹だ。足を捻って、ベッドに座ってただけ」

嘘を吐く顔が、平然としている。

鈴木青美は無表情のまま聞き流し、冷たく笑った。

「結婚して四年。あなたに妹がいるなんて、初耳ですけど?」

早村謙介は話を切り上げるように、彼女を抱き上げてベッドへ寝かせた。大きな身体が覆いかぶさる。

「今日は結婚記念日だろ」

耳たぶを撫で、低く囁く。

「子ども、作ろう。な?」

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