第6章

早村謙介は、少し離れたVIP観戦エリアの入口に立っていた。傍らには、早村瑞子。

視線がぶつかった、その瞬間。早村謙介の目に、はっきりと驚きが走った。

彼は、こんな鈴木青美を見たことがなかった。

華やかな装いを脱ぎ捨て、身体の線に沿うタイトなスポーツウェアをまとった姿は、すらりと引き締まっている。長い髪は高い位置でひとつに結ばれ、滑らかな額と鮮やかな目元がむき出しになっていた。いつもの、おっとりとして上品な早村夫人とは、まるで別人だ。

早村謙介の視線は彼女の上に数秒とどまり、それから彼女を支えている村田黒人へ移る。眉が、わずかに寄った。

「青美?」

鈴木青美のこわばりに気づいた村田黒人が、彼女の視線の先を追う。そして、ひときわ目を引くその男女を見つけた。

「あれは――」

「どうでもいい人よ」

鈴木青美は目を逸らした。

「行きましょ。車、慣らしてくれるんじゃなかったの?」

一歩踏み出しかけた、その時。早村謙介が、もうこちらへ歩み寄ってきていた。

「こんなところで何をしている」

鈴木青美は足を止め、振り返って正面から向き合う。

「早村様、見張りでもなさるんですか」

唇だけで笑った。

「残念ですけれど、私たち、もう離婚するんでしょう? 私がどこへ行って何をしようと、あなたにいちいち報告する必要はないはずです」

早村謙介の顔が、すっと冷えた。

「ずいぶん暇そうだな。離婚訴訟も始まっていないのに、サーキットで遊ぶ余裕があるとは」

「早村様ほどではありません」

鈴木青美は少し顎を上げ、その視線をまっすぐ受け止める。

「会社の仕事でお忙しいのに、そのうえ妹さんをサーキットまでお連れして気晴らしのお相手までなさるなんて。本当にご多忙ですこと」

言葉の棘を、早村謙介が聞き逃すはずもなかった。眉間に、うっすら皺が刻まれる。

その横で、早村瑞子が彼の袖をくい、と引いた。

「謙介お兄ちゃん、青美さんってレースもできるの? すごい……」

そう言いながら、鈴木青美と村田黒人の間に目を行き来させる。無邪気を装った声だった。

「こちらの方は、青美さんのお友達? ずいぶん仲がよろしいみたい」

村田黒人が口を開きかける。だが、それより先に鈴木青美が言った。

「ええ。私のレーシングチームのリーダーで、長年の友人です」

わずかに首を傾ける。

「何ですか、早村さん。私の交友関係がそんなに気になります?」

早村瑞子は言葉に詰まり、頬に貼りつけた甘い笑みが少しだけ揺らいだ。

彼女は早村謙介へさらに身体を寄せる。ほとんど腕にしがみつくようにして、か細い声を出した。

「謙介お兄ちゃん……私はただ、青美さんのことが心配で……」

「瑞子は善意で言ってるんだ」

早村謙介は、ほとんど無意識に早村瑞子の手を握り返した。

鈴木青美の視線が、絡み合うその手へ流れる。ひとまわりして、冷たい嘲りが唇に浮かんだ。

「早村さんの善意って、夫の前ではか弱く振る舞って、私の前では親しさを見せつけることなんですね」

小さく笑う。

「なかなかの演技力ですし、女優にでもなられたらいかがです?」

「鈴木青美!」

早村謙介の鋭い叱声が飛んだ。

早村瑞子の目にはたちまち涙がにじみ、声まで震えだす。

「青美さん……どうして、そんな言い方……。私と謙介お兄ちゃんは、本当に兄妹みたいなものなのに……」

けれど、鈴木青美は取り合おうともしなかった。ただひらりと手を振る。

「早村様、どうぞごゆっくり。大事な妹さんのお相手でもしていてください」

目を細める。

「私は用がありますので、これで」

言い終えると、彼女はそのまま背を向けた。

村田黒人も慌ててあとを追う。だが早村謙介の横を通り過ぎる瞬間、ほんのわずかに足を止め、低い声で告げた。

「早村さん。青美は今、俺のチームメイトです」

視線をまっすぐ返す。

「彼女のことは俺がちゃんと見ます。あなたが気にする必要はありません」

早村謙介は、遠ざかっていく二人の背中をじっと見つめた。握っていた手に、知らず力がこもる。

「いたっ……」

早村瑞子の小さな悲鳴で、彼ははっとして手を離した。

「謙介お兄ちゃん、痛い……」

早村瑞子が手首をさする。

だが早村謙介の目は、もう人混みに消えた鈴木青美の背だけを追っていた。

レースなんて、いつ覚えた?

あの男は、誰だ。

胸の奥に、説明のつかない苛立ちがじわりと広がっていく。

――レース開始を前にして、急に雨が落ちてきた。

「本当に行けるのか?」

隣のマシンから身を乗り出し、村田黒人が声を張る。雨音にかき消されそうなほど強い降りだった。

「無理そうなら、代走を入れてもいいんだぞ」

「甘く見ないで」

雨の幕の向こうから、鈴木青美の声が返る。

「余計なこと言ってないで、走って」

村田黒人は苦笑した。それでも、最後にきちんと念を押す。

「お前は第二走者。俺が先に出る。いいな、安全第一だ。順位はどうでもいい」

鈴木青美は、窓越しにOKのサインを見せた。

号砲が鳴る。

レース、開始。

村田黒人のマシンが、弦を離れた矢のように飛び出した。

鈴木青美は車内に座ったまま、搭載モニターに映るレース映像を見つめる。

村田黒人は好調だった。1周目を終えた時点で、暫定2位。

雨脚はさらに強くなる。視界は悪い。路面もひどく滑るはずだ。

それなのに、鈴木青美の胸は不思議なほど静かだった。

指先をわずかに動かし、ステアリングの感触を確かめる。四年間、深く沈んでいた熱が、じりじりと身体の奥で目を覚ましていく。

「青美、準備!」

無線から、村田黒人の声。

鈴木青美は深く息を吸い込み、エンジンをかけた。

数秒後。交代ゾーンへ村田黒人の車が滑り込む。その瞬間、彼女は迷いなくアクセルを踏み込んだ。

青いマシンが、雨のサーキットへ躍り出る。

白く滲む視界。濡れたアスファルト。タイヤが水を切る鋭い音。

それでも鈴木青美は一点に集中していた。コーナーごとのライン取りは正確で、挙動はなめらか。無駄がない。

あっという間に順位を上げる。――そして、トップへ。

スタンドからどよめきが起こった。

VIP席で、早村謙介がその青いマシンを見つめる。眉が深く寄る。

鈴木青美がレースをすることすら、彼は知らなかった。

まして、こんなにも上手いなんて。

雨を切り裂いて駆けるその姿は、まぶしいほど自由で、まぶしいほど自信に満ちていた。

胸の奥に、得体の知れない感情がせり上がる。

その時だった。

青いマシンが、ふいに左へ流れた。

早村謙介が目を見開き、がたんと立ち上がる。

車内。鈴木青美は、ステアリングが急に重く沈んだのを感じた。次の瞬間、車体が制御を失い、コース外へ滑り出す。

とっさにブレーキを踏む。

――効かない。

血の気が、すっと引いた。

強くハンドルを握り締め、必死に姿勢を立て直そうとする。だが速度が出すぎていた。しかも路面は水を含みきっている。

青いマシンは、手綱の切れた暴れ馬のように、防護柵へ一直線に突っ込んでいった。

「青美!」

無線の向こうで、村田黒人の絶叫が弾ける。

観客席から、いっせいに悲鳴が上がった。

VIP席では、早村謙介が反射的に駆け出しかける。だが、その腕に早村瑞子がしがみついた。

「謙介お兄ちゃん……っ、わ、私……心臓が……苦しい……」

早村謙介が、はっと振り向く。

早村瑞子の顔は真っ青だった。唇から血の気が引き、今にも倒れそうに見える。

「瑞子!」

その一瞬で、意識が逸れた。

その下で――

防護柵へ激突する寸前、鈴木青美はハンドルを切り込み、同時にサイドブレーキを引いた。

車体が濡れた路面で激しくスピンする。ぐるり、ぐるりと何度も回転し、そのまま横転。十数メートル先まで滑って、ようやく止まった。

サーキット全体が、一瞬で息を失ったように静まり返る。

数秒後。救護班とスタッフが、どっと車へ殺到した。

変形したコクピットから引き上げられた鈴木青美の意識は、まだあった。だが全身が砕け散ったみたいに痛い。呼吸ひとつするだけでも、ずきりと響く。

「青美! 青美、大丈夫か!」

村田黒人が駆け寄ってくる。声が震えていた。

鈴木青美は返事をしようとした。けれど、声にならない。

視界が少しずつ滲みはじめる。村田黒人の青ざめた顔。慌ただしく行き交う人影。騒然とする周囲。

そして最後に、VIP席が見えた。

早村謙介は、怯えた早村瑞子を抱きかかえるようにして、出口へ急いでいた。

彼は――彼女を、一度も見なかった。

その瞬間、鈴木青美はふっと笑った。

(いいわ。これで)

最後の幻想も、最後の期待も。

きれいさっぱり、消えた。

彼女は目を閉じ、闇へ身を委ねた。

鈴木青美は病院へ搬送された。診断は、多数の打撲と軽い脳震盪。骨折もあるが、命に別状はなく、入院して経過を見ることになった。

「本当に危なかったんだぞ」

病室のベッド脇で、村田黒人が青い顔のまま言う。

「反応が早かったからよかった。あそこでサイドを引いてなかったら、どうなってたかわからない」

唇を噛む。

「それにしても、お前、悪運強すぎるだろ。あのスピードであれだけで済むなんて……奇跡だ」

「そんな顔しないで」

鈴木青美は、かすれた声で言った。

「私、ちゃんと生きてるでしょ」

それから、少しだけ目を細める。

「でも――あれは事故じゃないかもしれない」

村田黒人の顔色が、さらに悪くなった。

「……どういうことだ」

鈴木青美は小さく鼻を鳴らし、窓の外を見る。いつの間にか雨は上がり、空には明るさが戻り始めていた。

ブレーキの故障。本当に偶然なのか。

早村謙介と早村瑞子が、よりにもよって今日に限って現れたこと。全車両、事前点検は済んでいたのに、自分の車だけが壊れたこと。

こんな偶然が、そう何度も重なるはずがない。

「村田」

包帯だらけの手を、鈴木青美は少し持ち上げた。

「スマホ、取って」

「だから動くなって」

村田黒人は慌ててスマートフォンを手に取り、彼女の指示に従って電話をかける。

コールはすぐにつながった。

「鈴木さん」

「大崎探偵」

鈴木青美の声は低く、よく冷えていた。

「今日のサーキットで、私の車に細工が入ったかどうか――調べてください」

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