第7章

医者は「鈴木青美さんはきちんと休養さえ取れれば大事には至りません」と言った。だが、村田黒人はどうしても納得できず、彼女に全身検査を受けさせると譲らなかった。

検査室の扉が閉まり、そしてまた開く。

戻ってきた医師は眉間にしわを寄せ、検査結果の紙を手にしていた。

「鈴木さん。外傷に関しては、当面は安静で問題ありません。ただ……」

言葉を切り、医師は報告書を鈴木青美の前へそっと滑らせる。

「腹部CTで、肝臓の部位に占拠性病変が見つかりました」

「……え?」

鈴木青美は固まった。

「簡単に言えば腫瘍です。良性か悪性かは現段階では断定できません。穿刺生検での確定診断が必要になります。できるだけ早く入院の段取りを――」

その先は、もう耳に入らなかった。

腫瘍?

自分はまだ二十八歳なのに。

「……治るんですか」

訊ねたのは、鈴木青美ではなく村田黒人だった。彼のほうが蒼白で、声がかすれている。

医師は眼鏡を押し上げ、慎重に首を振る。

「今ここで結論を出すのは早すぎます。ただ、良性でも悪性でも、早期発見・早期治療が最善なのは変わりません。鈴木さんはお若い。積極的に治療に臨めば、予後は悪くない可能性が高いです」

病院を出ても、鈴木青美の意識はどこか宙に浮いたままだった。

「青美、考えすぎるな」

村田黒人はハンドルを握りながら、何度も同じ言葉を繰り返す。

「今の医療は進んでる。絶対に大丈夫だ。腫瘍科の腕のいい先生も何人か知ってる。俺がすぐ手配する」

鈴木青美は曖昧に頷いたきり、ほとんど聞いていない。村田黒人もそれ以上は言えず、車内に沈黙が落ちた。

車が別荘の前に滑り込むころ、空はすでに夕暮れ色に染まっていた。

鈴木青美がドアを押し開ける。怪我のせいで動きが鈍く、身体が思うように言うことを聞かない。

村田黒人はすぐ降りて支えに回った。

「ひとりでできる」

低く言ったが、村田黒人の腕はもう彼女の肘を取っている。

「意地張るな。中まで送る」

二人が門へ向かった、その瞬間だった。

黒いマイバッハが唸りを上げて突っ込んできて、数メートル手前でキィッ、と乱暴に止まる。

ドアが開き、早村謙介が険しい顔で降りてきた。

大股で近づき、鈴木青美の腕を支える村田黒人の手へ視線を落とす。

「家の前で、他の男といちゃつく気か」

――事故を目の前で見ておきながら、ここまで一度も安否を訊かなかったくせに。

最初の言葉が、それ。

鈴木青美は顔を上げた。かつて夢にまで見たその横顔が、いまはひどく遠い。

「早村様。私たち、もう離婚するんです。私が誰と一緒にいようと、あなたには関係ありません」

「離婚協議書に俺はサインしてない。お前はまだ早村夫人だ」

早村謙介は一歩詰め、手を伸ばして掴もうとする。

「帰るぞ」

村田黒人が前に出て遮った。

「早村さん。青美はいま怪我をして休養が必要です。手荒な真似はやめてください」

早村謙介の目が鋭くなる。

「俺と妻の問題だ。部外者が口を挟むな」

「部外者……?」

鈴木青美はふっと笑った。

「早村謙介。あなたにとって私は、部外者以下でしょう」

村田黒人の肩を押しのけ、ふらつきながら一歩前へ出る。背伸びするように、早村謙介を見上げた。

「あなたが守りたいのは、その可愛い妹だけ。だったら今さら、ここに立って私に指図する資格がどこにあるの?」

早村謙介が眉を寄せる。

「瑞子はあのとき発作を起こした。すぐ病院に連れていく必要があった。それに、お前は大したことなかっただろ」

大したことがない?

見ればわかるはずだ。あの瞬間、自分が死ぬところだったことくらい。

……それでも彼は、見ない。いまも、これからも。

鈴木青美は疲れ切ったように目を閉じた。まつげの端に、涙が一滴だけ溜まって落ちる。

「早村謙介、もう放って」

声が、かすれる。

「医者に言われました。肝臓に腫瘍があるって。良性か悪性かは、検査しないとわからない。重い病気の女なんて、早村家にはもう価値がないでしょう。だから、さっさと離婚して」

本当に、疲れた。

彼が欲しいのは体裁のいい早村夫人で、病人じゃない。なら、病気だと知れば潔く手放す――そう思った。

だが。

早村謙介は数秒、言葉を失ったあと、複雑な目で彼女を見た。

そして口にしたのは、冷たい断定だった。

「青美。気分が荒れてるのはわかるが、そんな嫉妬のやり方は幼稚だ」

鈴木青美の指先が震えた。

村田黒人が信じられないという顔で早村謙介を睨む。

早村謙介は続ける。

「レースで事故、そのあと腫瘍発見。出来すぎてる」

息を吐き捨てるように。

「瑞子に嫉妬してるのはわかる。でも必要ない。あいつは妹だ。今日だって、お前の事故を見て驚いて発作を起こした。お前は軽傷。それで今さら腫瘍だなんて――青美、俺を子ども扱いするな」

鈴木青美は呆然と、彼を見つめた。

心配されることを、ほんの少しだけ……期待していた自分がいた。

けれど彼は信じない。嫉妬だと言い切る。

信じたところで、何が変わる?

あの生死の瞬間でさえ、彼は瑞子のほうしか見なかった。

腫瘍が悪性でも、余命が短くても――この男が振り向くはずがない。

「……嘘だと思うの?」

鈴木青美は、小さく訊ねた。

「こんなことで、私があなたを騙すと?」

「青美、もうやめろ。俺は今日は疲れてる」

早村謙介は答えないまま、彼女の頬に触れようと手を伸ばす。鈴木青美は顔を背け、その指先を避けた。

宙で止まった手が、ゆっくり引っ込む。早村謙介の顔から温度が消えた。

「上に行く。話すぞ。瑞子のことは説明できる。ただ、あいつは心臓が弱い。刺激するな」

「……もういい」

鈴木青美は遮り、早村謙介を見ないまま村田黒人へ言った。

「村田。上に行って、荷物を取る。手伝って」

この家に、もう住みたくない。

この人の顔も、もう見たくない。

「青美!」

早村謙介が手首を掴む。

「部外者を家に入れる気か」

「放して」

鈴木青美の声は氷だった。

「鈴木青美、俺を――」

「逼迫してる?」

鈴木青美は勢いよく振り向く。バッグからスマホを掴み出し、早村謙介の胸に叩きつけた。

「これ、見て。早村謙介」

震える指で、彼が受け取った画面を指す。

「私が探偵に調べさせた監視映像。目をかっ開いて見なさい。整備区画に入ったのは――誰の人間なの!」

「それは、他の男を勝手に家へ入れる理由にはならな――」

早村謙介は投げやりに言い返しかけ、画面を流し見た。

そして、言葉が途切れる。

息を呑み、身体が硬直した。

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