第8章

スマホの画面。高画質の監視映像には、サーキットの整備エリアの一角がはっきり映っていた。

レース開始の2時間前。整備士の作業着を着た男が、鈴木青美の青いマシンへこそこそと近づく。

車体の前にしゃがみ込み、手慣れた動きでブレーキホースの接続部をくるくると緩めた。

次の瞬間、映像は別の角度に切り替わる。

同じ整備士が駐車場の隅で男と落ち合い、何かを受け取っていた。金の受け渡し。

相手は、早村瑞子の運転手――大崎達夫。

早村謙介は画面に釘付けになり、瞳孔がぎゅっと縮む。

「……そんなはずがない」掠れた声が漏れた。「誤解だ……きっと……」

「誤解?」鈴木青美が鼻で笑う。「早村謙介。運転手は、あなたが瑞子につけたんでしょ。あの子以外で動かせるのは、あなたしかいない。――それとも、あなたがやらせたの?」

早村謙介の顔色が、さっと白くなる。

「違う! 俺じゃない!」

反射的に瑞子を庇おうとして、言葉が喉に詰まった。どんな理屈も、映像の前では薄っぺらい。

「瑞子は……ただ、出来心で……」

「まだ若いし、分別が――」

「25で『まだ若い』?」鈴木青美が冷たく遮る。

「目を覚まして。あの子は分からないんじゃない。最初から、わざとよ」

「そんなはず……!」早村謙介が勢いよく顔を上げる。「瑞子は……瑞子は、ただ……っ」

続かない。理由が見つからない。

「だから、私を殺すの?」鈴木青美が笑った。温度のない笑い。

「早村謙介――立派な妹ね」

一歩、後ろへ。距離を切るように退いて、瞳から最後のぬくもりが消えた。

「もういい。あなたが庇う声は聞き飽きた」

くるりと背を向けると、鈴木青美は村田黒人へ言った。

「村田。上、行こう。荷物まとめる」

「鈴木青美!」早村謙介が前に出て塞ぐ。

「話すことなんてない」鈴木青美は彼の手を払いのける。

「弁護士を通して、早村瑞子を殺人未遂で正式に訴える。離婚も同じ。早村様が協議に応じないなら、法廷で決着をつけましょう」

一拍置き、冷ややかに横目で見上げる。

「ついでに言っとくけど――殺人未遂は、軽い罪じゃない」

そう言い捨てて、彼女はまっすぐ邸の玄関へ向かった。

村田黒人がすぐ後ろにつく。早村謙介の横を通る瞬間だけ、冷たい視線を一度だけ投げる。

早村謙介は、鈴木青美の決絶した背中を見送るしかなかった。身体が、石みたいに固まって動かない。

――屋敷の中。

鈴木青美は階段を上がり、迷いなく主寝室へ入った。

ウォークインクローゼットの一角。そこには、結婚前に自分で買った服だけを入れてある棚がある。

一着ずつ取り出しては畳み、村田黒人が運んできたスーツケースへ詰めていく。

身分の象徴であり、同時に鎖でもあるブランドのドレスや、目が眩むほど高価な宝石には指一本触れない。視界にも入れたくなかった。

最後に、ナイトテーブル。

そこに置かれていたのは、二人の結婚写真――4年前、エーゲ海で撮った一枚。真っ白なドレスの自分は、子どもみたいに笑っている。

早村謙介は腰に腕を回し、彼女がその後一度も見たことのない、柔らかな笑みを浮かべていた。

若い頃は、根拠のない幻想を抱く。愛し合っていれば、どんな壁も越えられる、と。

でも前提がある。

――愛し合っていれば、だ。

早村謙介は、彼女を愛していなかった。

鈴木青美は水晶のフォトフレームを手に取る。指先で、写真の笑顔をそっとなぞった。目を閉じ、深く息を吸い込んで――

手を離した。

ガシャン。

フレームが床に落ち、ガラスがぱっと四方へ飛び散る。

割れた枠から写真が滑り出し、二人の笑顔が亀裂の上で歪んだ。

鈴木青美はしゃがみ込み、その写真を拾う。そして、中央からびり、と裂いた。

早村謙介の半分は、床へ投げ捨てる。

自分の半分は一瞬だけ迷い、結局スーツケースの内ポケットへ滑り込ませた。

出ていくなら、綺麗に出ていく。

壁のウェディングフォトも次々に引き剥がしていく。破れないものは、口紅で――自分の顔だけを塗り潰した。

「青美……」

村田黒人が入口に立ち、心配そうに見ていた。何か言いかけて、飲み込む。

「……他にまとめるもの、あるか」

「ない。これだけ」鈴木青美はファスナーを上まで引き、立ち上がった。「行こう」

最後に部屋をぐるりと見回す。四年閉じ込められていた、金の鳥籠。

――さよなら。

――階下。

早村謙介は、まだ庭に立ち尽くしていた。

足音に気づいて顔を上げる。鈴木青美がスーツケースを引いて出てくるのを見た瞬間、半歩踏み込み、その手首をきつく掴んだ。

口調は冷たい。なのに、声はわずかに震えていた。

「……ここまで、やる気か」

「あなたが、私にここまでさせたの」

鈴木青美は振り返り、四年間愛した男を、最後に正面から見据えた。

「さっきね、結婚写真を破いた。破片を見て思ったの。私たちの結婚って、あのフレームみたい。外側だけ綺麗で、中はとっくに割れてた。私が見ないふりしてただけ」

早村謙介の胸が、ぎゅっと握り潰されたように痛む。

「青美、俺は……」

「やめて」鈴木青美が遮った。

「早村謙介。今日で終わり。あなたは瑞子を守ればいい。私は私の道を行く。橋は橋、道は道。もう二度と関わらない」

スーツケースの取っ手を引き、村田黒人の車へ向かう。

早村謙介は呆然と立ち尽くし、その車が庭を出て、夜の闇へ溶けるまで見送った。

エンジン音さえ消えて、ようやく我に返る。

鈴木青美は、たった一つのスーツケースだけで出ていった。必要なものだけを持ち、他は全部置いて。

要らないゴミだと言わんばかりに。

……自分も含めて。

「くそっ……!」

早村謙介は低く吐き捨て、鉄の装飾門に拳を叩きつけた。

どうしてだ。

まだ、離婚に同意してすらいないのに。

震える手でスマホを取り、鈴木青美へ電話をかける。

『おかけになった電話番号は、現在通話中です』

切って、もう一度。

『おかけになった電話番号は、現在通話中です』

切られたんじゃない。ブロックされている。

LINEを開いて送る。

「青美、話そう」

送信はできた。だが次の瞬間、赤い感嘆符。

『メッセージは送信されましたが、相手に拒否されました』

……これも、ブロック。

他のアプリも片っ端から試す。

どれもダメ。考え得る連絡手段は、すべて遮断されていた。

さっきまで目の前にいた鈴木青美が、まるで蒸発したみたいに彼の世界から消える。

違う。

消えたんじゃない。

彼女が自分の手で、一本残らず切ったのだ。連絡という回線を、全部。

彼女はもう、彼を要らないと決めた。

早村謙介は顔を沈め、外に停めてある車へ向かう。ドアを乱暴に開けた。

追いかけて問いただす。俺は何を欠いた? 何を奪った? 何が、ここまで彼女を追い詰めた――

その瞬間。

静まり返った夜を裂くように、スマホが甲高く鳴り響いた。

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