第9章

早村瑞子からの電話だった。

早村謙介はスマホを睨みつけたまま、長いこと黙っていた。やがて親指で通話ボタンを押す。

「謙介お兄ちゃん……」

受話口から、か細い声が滲む。

「心臓が苦しくて……いつ帰ってくるの? ひとりだと……怖い……」

「サーキットの件。お前がやったのか」

早村謙介は唐突に言った。

電話の向こうが、数秒、静まる。次いで、甘えるみたいな声が返ってきた。

「えー、謙介お兄ちゃん、もう知ってたんだ?」

謙介の背筋がひやりとした。――認めた?

「俺が聞いてるのは、彼女の車に手を入れさせたかどうかだ」

「情報、早いね」瑞子が小さく笑う。

「私、レース習いたかっただけなんだよ。駐車場に人を行かせて、車種を見てもらっただけ。謙介お兄ちゃん……怒ってる? 嫌ならやめる。レース、しない」

「瑞子」

早村謙介は深く息を吸い込む。

「本当のことを言え」

「……本当のこと?」

「監視に映ってる。お前の運転手が金を渡して、鈴木青美のブレーキラインを弄った。青美は死にかけたんだぞ!」

「え……なに、それ……!」

瑞子の声が跳ね上がり、すぐ涙混じりに掠れた。

「私、知らない……ほんとに知らないよ……謙介お兄ちゃん、私を疑うの? 私、あなたが見て育ててくれたのに……ごほっ、ごほ……」

「瑞子?」

「心臓が……痛い……薬、ベッドの……脇……」

声がぷつぷつと途切れる。

早村謙介は奥歯を噛んだ。

「救急車を呼ぶ」

「やだ……帰ってきて……ひとり、怖い……」

――ガタン。電話の向こうで、重いものが落ちる音。

早村謙介は目を閉じる。鈴木青美が去った方角へ視線を投げ、拳でハンドルを叩きつけた。

それでも結局、車は方向を変え、半山の別荘へ向かって走り出した。

――三日後。

林原稲美のマンションの前に、不意の来訪者が二人立っていた。

ドアスコープを覗いた林原稲美が、眉間に皺を寄せる。

「……早村謙介と、早村瑞子」

「開けて」

鈴木青美は静かに立ち上がった。

来るのは予想していた。妹を守るためなら、あの男はどんな手でも使う。

ドアが開く。廊下に立つ早村謙介は目の下に濃い隈を作り、どこかやつれた顔をしていた。

「早村様、何か」

鈴木青美の声に気遣いはない。

早村謙介が視線を揺らし、低く言う。

「中で話せるか」

鈴木青美は身体を少しだけ横へずらした。

「手短に」

二人が入ると、瑞子が室内を一周するように見回し――次の瞬間、目尻を赤くした。

「青美お姉さん……怪我、良くなった?」

鈴木青美は答えない。早村謙介だけを見据える。

「用件は」

謙介が短く息を吐き、瑞子へ前に出るよう顎で促した。

瑞子はすぐ、涙目のまま深く頭を下げる。

「青美お姉さん、ごめんなさい。サーキットのこと、私が悪かった。あなたの車に人を近づけたのは私。でも、本当に……細工するなんて知らなかったの。私、ただレースを学びたくて、車種を見てもらっただけで……わざとじゃないの。許して……」

ぽろぽろ、涙が零れ落ちる。早村謙介は眉をひそめ、見ていられないといった顔で口を挟んだ。

「青美。瑞子は反省してる。もう二度としないって。謝ったんだ。この件は――」

鈴木青美は、喉の奥で笑いそうになった。

こんな稚拙な言い訳を、こいつが本気で信じている。

「早村謙介。子どもですか」

謙介の顔が硬直する。

「青美、瑞子はまだ若い。遊びで――」

「遊び?」

鈴木青美はすっぱり切った。

「その遊びで死ぬのがあなたなら、それでも同じ顔でいられる?」

瑞子が、さらに激しく泣き崩れる。

「青美お姉さん……どうしてそんな呪いみたいなこと……! 私、ほんとに反省してる……お金なら払う……!」

早村謙介の顔色が沈み、瑞子を庇うように一歩前へ出た。

「青美、もう起きたことだ。前を向け。瑞子は体が弱い。大事にしたら病状にも響く。お前は、どうしてそこまで追い詰める。やりすぎだ」

「私が、やりすぎ?」

鈴木青美は笑った。

「人を殺しかけるのはやりすぎじゃなくて、正当な権利を求めるのがやりすぎなんだ」

「そういう意味じゃない」

早村謙介は苛立ったように鼻梁をつまむ。

「瑞子だって故意じゃない。私的に解決できる。法廷はやめろ。早村家の評判にも響くし、お前にも――」

「脅し?」

鈴木青美が目を細める。

「交渉だ」

早村謙介は深く息を吸い、平静を装って続けた。

「青美、夫婦だった。ここまで泥沼にするな。瑞子を訴えないなら、離婚条件は飲む。お前が欲しい10%の株、渡す」

鈴木青美は、一瞬だけ言葉を失った。

あれほど拒んだ10%を――瑞子のためなら差し出す。

「……そんなに、愛してるの?」

しばらくして、掠れた声が落ちた。

早村謙介は乱暴に髪をかき上げる。

「妹だと言っただろ。両親に頼まれて守ってるだけだ」

鈴木青美は薄く嗤う。

「胸に手を当てて。兄妹の情だけだって、言い切れる?」

早村謙介の顔がわずかに揺れたが、答えない。

鈴木青美は一歩、引いた。

「残念。受けません」

「青美!」

「離婚はする。早村瑞子も訴える」

鈴木青美は冷たく宣告する。

「交渉の余地はない。帰って」

黙って聞いていられなかった林原稲美が、すぐ前へ出て二人を押し出す。

「聞こえた? 出てって! ここは歓迎してない!」

「青美、お前……」

早村謙介が何か言いかけたが、ドアは容赦なく閉まった。

廊下で瑞子が謙介の袖に縋りつき、涙声で繰り返す。

「謙介お兄ちゃん、どうしよう……お姉さん、本当に通報するの? 私、わざとじゃないのに……なんで信じてくれないの……」

早村謙介は泣きじゃくる瑞子を見て胸の奥が締まり、肩を抱いた。

「大丈夫だ。俺が守る。泣くな。心臓に悪い。帰ろう」

瑞子を半山の別荘へ送り、散々宥めさせられてから――ようやく早村謙介は自宅へ戻った。

鈴木青美が出ていったあの日から、彼は一度も家に帰っていない。

深夜。玄関の灯りに気づいた使用人が、そっと出迎えた。

「若様、お帰りなさいませ。お食事は――」

「要らない。部屋へ戻る」

「……若様」

使用人が不安げに一歩出る。

「奥様が出ていかれる際、お部屋が……少々。大事なものもあり、勝手に触れられず……」

早村謙介は眉を寄せ、二階へ上がった。

扉を開けた瞬間、意味がわかった。

主寝室。二人の結婚写真はすべて、徹底的に壊されていた。裂けるものは裂かれ、砕けるものは砕かれ、壊せないものは――口紅で、彼女自身の顔だけが塗り潰されている。

この部屋に、彼女の顔は一枚も残っていなかった。

早村謙介の呼吸が止まる。胸の奥が、ずしりと沈んだ。

衣装部屋へ向かうと、鈴木青美が持ち出したのは結婚前の服だけ。

早村家に関わるものは、すべて置き去りにされていた。

早村謙介は拳を握りしめ、背を向ける。

見たくない――そう思って廊下へ出た、その瞬間。

足元で、何かを踏んだ。

薄い紙。

拾い上げ、視線を落とす。

患者名:鈴木青美。

診断結果――腫瘍。

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