第1章

 激突の衝撃で車体がきりもみ回転し、制御を失う。防弾ガラスを穿つ銃弾の破裂音が、耳元で炸裂した。

 敵対組織による、狂気じみた襲撃だった。

 生死を分かつ刹那、運転席の渋木明宏は本能的にハンドルを切り、助手席側を射線の死角へと滑り込ませた。

 そこに座っていたのは冴羽エリ。冴羽家の養女であり、私の妹だ。

 だが、彼の正妻である私――冴羽薫子は、遮るものもなく濃密な弾雨に晒された。

 一発の銃弾がドアを貫通し、私の肩へと食い込む。

 激痛が走る直前、私の目に焼き付いた最後の光景。それは、シートベルトを外した渋木明宏が、なりふり構わず冴羽エリに覆いかかり、自らの身体で彼女を死守する姿だった。

 やがて、意識は暗黒に呑み込まれた。

 次に目覚めたとき、鼻孔を突いたのは消毒液の匂いだった。

 渋木明宏――日本の裏社会の半分を牛耳るその男が、私のベッドサイドに腰を下ろしている。

 瞳の奥は充血し、顎には青い髭が浮いている。普段は完璧に着こなしている高級なオーダーメイドスーツも、今は皺だらけだ。

 私が目を開けたことに気づくと、その冷徹な瞳に一瞬、狼狽の色が走った。

「薫子」

 掠れた声と共に、温かい掌が私の冷え切った頬をすぐに包み込む。

「やっと目が覚めたか。本当に……もう少しで命を落とすところだったんだぞ」

 銃弾の雨を前にしても眉一つ動かさない男が、私の怪我一つで指先を震わせている。

 以前なら、その姿に涙していただろう。

 だが今、かつて全幅の信頼を寄せていたその瞳を見ても、肩の銃創より深い痛みを胸に感じるだけだった。

 その愛おしげな表情は、演技では作れない。

 けれど、あの時冴羽エリを庇った必死の形相もまた、紛れもない本物だった。

 自ら体験し、調査報告書や写真を目にしていなければ、渋木明宏ほどプライドの高い男が、冴羽エリのような女の拙い演技に踊らされているなどとは到底信じられなかっただろう。

 冴羽エリ、私の『可愛い妹』。彼女は子どもという切り札を使って、この一年間、彼との秘密の時間を独占していたのだ。

 私は顔を背けて彼の手を避け、枕に音もなく涙を吸わせた。

 無意識に腹部へ伸びかけた手が、空中で凍りつく。

 そこには今、小さな命が宿っている。

 長年耐え忍び、ようやく授かった待望の子だ。この子を守るためなら、私は誰よりも冷静であらねばならない。

 私が怯えていると思ったのか、渋木明宏は身を屈めて私を抱き寄せた。その低く優しい声は、どこまでも完璧な夫のものだ。

「怖がらなくていい。もう大丈夫だ。手出しをした連中は始末した。二度とこんなことはさせない」

 あまりに近い距離。

 その瞬間、彼の身体から漂う微かな匂いに気づいてしまった。

 血の匂いでも、硝煙の匂いでもない。

 それは、冴羽エリが愛用している甘ったるい香水の残り香だった。

 胃の腑が激しく波打ち、強烈な生理的嫌悪感がすべてを凌駕する。

 私は彼を突き飛ばし、足をもつれさせながら洗面所へ駆け込むと、洗面台にしがみついて激しくえずいた。

 渋木明宏が追いかけてくる。

 潔癖症で、汚れや異臭を何より嫌う彼が、冷たいタイルの床に片膝をつき、私の腰を支えながら乱れた髪を優しく耳にかけている。

「辛いか? 医者を呼んでくる」

 彼はティッシュを取り、丁寧に私の口元を拭った。

 その献身的な姿に、張り詰めていた心の防壁が崩れそうになる。

 この瞬間の彼は、確かに私が深く愛した渋木明宏その人だった。数多の危機に満ちた夜、私の盾となってくれた男。

 一瞬、心が揺らいだ。もし彼が冴羽エリとの関係を清算できるなら、これが一時の過ちであるなら、お腹の子のためにも元の鞘に収まることができるのではないか?

 私は口を開き、子供のことを告げようとした。

「明宏、実は私――」

 その時、彼のポケットで携帯電話が震えた。

 『緊急事態』用に設定された特別な着信音。

 画面を一瞥した瞬間、彼の眼差しが変わる。彼は私の額に慌ただしくキスを落とした。

「会社の方で急用ができた。今すぐ行かなきゃならない。すぐに戻るから、ゆっくり休んでいてくれ」

 そう言い捨てると、彼は振り返りもせず大股で去っていった。

 三十分後。

 私の携帯が光った。差出人は冴羽エリ。

 メッセージはなく、一枚の写真だけが添付されている。

 写真の中で、渋木明宏は病室のベッドサイドに座り、粥の器を手にしていた。彼はそれを慎重に冷まし、冴羽エリの口元へと運んでいる。

 冴羽エリの膨らんだ腹部を見つめる彼の表情には、罪悪感など微塵もない。そこにあったのは、私が見たこともないような、父としての穏やかな充足感だった。

 その一枚の写真が、私の中に残っていた僅かな幻想を断ち切った。

 退院の日、私は渋木家の屋敷には戻らなかった。

 夏目悠の暗号化回線を呼び出す。彼女はトップクラスのハッカーであり、私が唯一背中を預けられる人間だ。

「『事故』を起こしてほしいの。確実に死ねるようなやつを」

 窓の外のどんよりとした空を見つめながら、私は告げた。

「車の爆発でも墜落でも構わない。『冴羽薫子』という人間を、この世から完全に消し去って」

 電話の向こうで三秒の沈黙が流れる。

『本気なの? 相手はあの渋木明宏よ……もし偽装死だとバレたら、ただじゃ済まないわ』

「彼のことは、誰よりも私が理解しているわ」

 私は平らな腹部を撫でた。瞳の奥に冷たい光を宿して。

「理解しているからこそ、分かるの。彼は絶対に私を逃がさない。死なない限り、この子は守れないし、私本来のものを取り戻すこともできない」

『分かった』

 夏目悠の声が仕事モードに切り替わる。

『二日ちょうだい』

 通話を切り、私は『家』と呼ばれていた場所へ戻った。

 彼から贈られた宝石やドレス、そして愛し合っていた頃に綴られた百通以上の恋文。それらすべてを箱に収めた。

 深夜、携帯が一度だけ震えた。

 夏目悠からの暗号化メールだ。

『準備完了。二日後、雲山ハイウェイにて、あなたは完全に消滅する』

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