第1章

 如月詩音は死んだ。

 留置所の、あの冷たい独房の中で。

 目を閉じた瞬間、彼女は解放されたような感覚さえ覚えた。

 二ヶ月も続いたこの苦しみから、ようやく解き放たれたのだ。

 だが、再び目を開けた時、彼女は自分が桐生家の豪華な邸宅の上空に浮かんでいることに気づいた。

「どういうこと……?」

 彼女は自分の透き通った両手を見下ろす。胸に、引き裂かれるような痛みが走った。

 おかしな話だ。死人になっても、心が痛むだなんて。

 書斎から、聞き慣れた声が聞こえてくる。

「そこで待ってろ。今から行く」

 桐生博之が電話の向こうの相手を優しく慰める。その声色に、詩音は全身が震えた。

 彼が自分に対して、あんな声色を使ったことなど一度もなかった。

 彼女の魂は書斎の中へと吸い込まれ、その男の姿を見て愕然とした。

 広い肩幅、冷徹な顔立ち、立ち居振る舞いから放たれる圧倒的なオーラ。間違いなく桐生博之だ。

 十年前に小さな会社で営業に走り回り、数万円の契約のために深夜まで残業していた桐生博之が、今や金融界の伝説的人物となり、数百億もの資産を操っている。

 こうして彼を見ていると、詩音は思わずにはいられなかった。自分たち二人の距離は、もうこんなにも遠く離れてしまったのだ、と。

 桐生博之は電話を切ると、慌ただしく書斎を後にした。

「誰に電話してたの?」

 詩音は苦々しく思う。

「きっと、私じゃない」

 彼女の魂は、無意識のうちに彼の後を追っていた。


 私立の高級病院、そのVIP病室。

 如月優希は車椅子に座っていた。博之がドアを開けて入ってくるのを見ると、彼女の目には瞬く間に涙が溢れる。車椅子から立ち上がろうともがくが、そのまま床に崩れ落ちた。

「博之お兄ちゃん!」

 彼女は泣き叫ぶ。

「私、もう二度と踊れないの?」

 博之は数歩で駆け寄り、彼女を壊れ物でも扱うようにそっと抱き上げて車椅子に戻した。

 彼の動作は、まるで稀代の宝物を抱えるかのように優しい。

「全部、俺のせいだ」

 彼の声は掠れ、その瞳は罪悪感に満ちていた。

「あいつがお前をこんな目に遭わせたんだ。詩音には刑務所でたっぷり苦労させて、お前のために晴らしてやる」

 優希は表向きは首を振ったが、その目には一瞬、得意げな光がよぎった。

「いいの、博之お兄ちゃん。私、お姉ちゃんのこと恨んでないから」

 詩音は宙に浮かびながら、この心温まる光景を眺めていた。胸を、誰かに容赦なくナイフで突き刺されたかのようだ。

 もう彼女に苦労させる必要はない。

 彼女はもう死んでいるのだから。

「博之お兄ちゃん、先生がね、私、骨髄移植しないと良くならないって」

 優希は博之の手を握り、弱々しい声で言った。

「でも、適合する人なんて、すごく少ないし……」

「詩音の骨髄がお前と適合する」

 博之の眼差しが冷たくなり、殺意が走った。

「あいつには代償を払ってもらう!」

 優希は心配するふりをした。

「でも、お姉ちゃんは私のことすごく恨んでるわ。同意してくれるかしら?」

「もう少しあいつを閉じ込めておく。いつ俺に頭を下げて非を認め、お前への骨髄提供を承諾するか。そうなったら、出してやる!」

 博之は冷たく言い放つ。その目に温情は一切なかった。

 詩音の魂は激しく震え、心は死んだ灰のようだった。

 もう死んでしまったのに、どうやって頭を下げて非を認めろというのか。

 彼は本当に、自分をここまで憎んでいるのか?

 詩音は十六歳のあの年を思い出す。実の両親が突然、孤児院の前に現れた。

 奇跡だと思った。ようやく自分を愛してくれる人が現れたのだと。

 しかし、如月家に戻ってから、彼女は真相を理解した。

 如月優希が再生不良性貧血を患っており、定期的な輸血が必要だったのだ。そして彼女は、希少な血液型を持ち、如月優希と完璧に適合していた。

「詩音が帰ってきたら、優希は助かる」

 当時、父は母にそう言った。その声は心からの安堵に満ちていた。

 その日から、彼女は家の「移動式血液バンク」となった。毎月定期的に採血され、体はどんどん衰弱していく。一方で優希は、両親の庇護の下でますます健康になっていった。

 彼女はついに悟った。実の娘である自分よりも、如月家は幼い頃から可愛がられてきた養女の優希の方を愛しているのだと。自分はただの道具でしかなかったのだと。

 やがて彼女は、両親に愛を乞うのをやめた。

 再び博之に出会うまでは。

 如月家に引き取られる前、二人は深く愛し合っていた。だが、彼女が連れて行かれた後、別れを告げる間もなく、彼は詩音に捨てられたと思い込んでしまった。

 彼は詩音をずっと憎んでいた。

 六年前、博之が交通事故に遭い、道端に倒れていた。

 詩音は一目で彼だとわかった。駆け寄ろうとしたが、優希が助けに行こうとする詩音を引き止めた。

「行っちゃダメ! 当たり屋かもしれないわ!」

 それでも彼女は飛び出し、血まみれの博之を病院へ運び、三つのアルバイトを掛け持ちして彼の医療費を払った。

 だが運命は皮肉なもので、桐生グループの当主が、この時になって彼を隠し子として認知した。

 すると優希はすぐさま病院に駆けつけ、自分が命の恩人だと嘘をつき、救助を阻止しようとしたことを全て詩音のせいにした。

 それ以来、博之は彼女を仇敵と見なすようになった。

 彼女を辱め、苦しめることだけを考えて。

 そしてもちろん、最後には実際に彼女を刑務所送りにしたのだった。


「優希、これを」

 博之は精巧な錦の箱を取り出した。

 箱の中には、古風な玉のペンダントが収められていた。詩音は瞬時に目が赤くなる。

 それは祖母の形見だった! この世界で唯一自分に優しかった人が残してくれた、たった一つの想いの品!

 博之は自ら優希の首にペンダントをかけてやる。その動作は優しく、そして厳かで、まるで何か神聖な儀式を執り行っているかのようだった。

 優希はペンダントを撫でながら、わざとらしく困った顔で言った。

「でも、これ、おばあ様が詩音にくださったものでしょう? 私がもらったって知ったら、きっと怒って仕返しされるわ」

「彼女は君の祖母でもある。君が持っていても、持ち主の元へ戻っただけのことだ」

 博之は冷たく言い放つ。その目に鋭い光が宿った。

「あいつがもし君をいじめるようなことがあれば、刑務所から永遠に出られないようにしてやる」

 彼は優希の手を握り、その目は罪悪感と感謝に満ちていた。

「六年前、見殺しにしないでくれてありがとう。最高の医者を手配して君を治す。いくらかかろうとも」

 優希は俯き、口の端を密かに得意げに吊り上げた。

 詩音の魂は激しく震え、祖母の形見が仇の身につけられるのを見て、今すぐにでも魂が消え去ってしまいたいと願うほどだった。

「博之お兄ちゃん、私の病状、悪化してるの」

 優希は話題を変え、再び骨髄の話を持ち出した。彼女の声はますます弱々しくなる。

「先生が言うには、もしこれ以上適合する骨髄が見つからなかったら……」

「明日、刑務所に行く」

 博之はきっぱりと言った。

「詩音は必ず提供に同意する」

 詩音は宙で、悲痛な笑みを浮かべた。

 死人がどうやって骨髄を提供するというのか?

 彼女が死んでから、もう二ヶ月も経つのに。彼らはまだここで、彼女の価値を計算している。

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