第4章
プライベートホスピタルのVIPルームにて、如月優希は青白い顔でベッドに横たわっていた。
博之が慌てて駆けつけると、如月夫妻がベッドのそばに付き添い、その瞳は心配の色で満ちていた。
「博之さん、詩音はどうなったの?」
如月家の母親が切羽詰まった様子で尋ねた。
「あの子はいつ優希に骨髄を提供しに戻ってくるの?」
「優希の容態はかなり悪い」
如月家の父親が付け加える。
「医者によると、もって二ヶ月だそうだ」
博之は衰弱した優希を見て、胸が張り裂けるような思いだった。
「ご心配なく。必ず詩音を連れ戻します」
「お姉ちゃんは……嫌だから、隠れているのかな?」
優希が弱々しく問いかける。その目には、一瞬だけ後ろめたさがよぎった。
「嫌だなんて言わせない!」
博之の目に冷たい光が宿る。
「たとえ縛ってでも、あいつを連れ戻してやる!」
如月夫妻は顔を見合わせる。その瞳には養女への慈しみだけがあり、実の娘の生死などまるで意に介していない。
詩音の魂魄は、その光景を冷ややかに見つめ、心は完全に死んでいた。
この人たちは、一度たりとも自分を家族だと思ったことなどなかったのだ。
如月詩音が見つからないことで、博之の苛立ちは募り、眠れない夜が増えていった。
週末の明け方、博之は突如、悪夢から飛び起きた。
夢の中で、詩音は血まみれになりながら彼を見つめ、なぜ罪のない人を傷つけるのかと問いかけてきた。
目が覚めたとき、彼は蒼井の老当主が亡くなったという知らせを受け取った。
蒼井老先生は昨日、心臓発作を起こし、病院で手当の甲斐なく息を引き取ったという。
死の床で、老人はなおも息子のことを案じ、蒼井家の事業が立ち行かなくなるのではないかと恐れていた。
車を走らせ蒼井家の屋敷へ向かうと、遠くからでも門の前に黄色い花輪がずらりと並んでいるのが見えた。
蒼井崇人は黒いスーツに身を包み、憔悴しきった面持ちで祭壇の前に立っていた。
博之は中へ入り、線香を一本手向けた。
「満足か?」
蒼井崇人が赤く腫らした目で彼を見る。
「親父が死んで、嬉しいか?」
「お爺さんの命まで奪うつもりはなかった」
博之の声は少し乾いていた。
「だが、親父はあんたの復讐のせいで死んだんだ!」
蒼井崇人は歯を食いしばる。
「博之、あんたはもう彼女が死んだことを知っているはずだ。ただ信じたくないだけなんだ!」
その言葉は雷鳴のように響き、博之の顔は瞬く間に真っ白になった。
「何を言っている?」
蒼井崇人は冷笑した。
「詩音はもう死んだ。刑務所の中でな! それなのにあんたはここで狂ったように無関係な人間に復讐しているんだ!」
「ありえない!」
博之は一歩後ずさる。
「彼女が死ぬはずがない!」
「だったら刑務所へ行って、あいつの骨壺でも見てくるんだな!」
蒼井崇人は怒りに任せて吼えた。
「あんたがその手で殺した人間を、その目で見てこい!」
蒼井家からの帰り道、博之はぼんやりとしたまま車を運転し、危うく道端のガードレールに衝突しそうになった。
彼は車を拘置所の前に停めると、車内に座ったまま、なかなか降りることができなかった。
震える手で煙草に火をつけたが、あまりの震えに煙草すらまともに持てないことに気づく。
詩音の魂魄は助手席に座り、かつてあれほど強気だった男を痛ましげに見つめていた。
彼はついに疑い始めた。真実と向き合うことを恐れ始めたのだ。
だが、遅すぎた。すべてがもう手遅れだった。
拘置所の面会室で、博之は青白い顔をして冷たい金属製の椅子に座っていた。
「詩音に会いたい」
彼の声は乾ききっている。
「もし彼女がまだ俺を怒っているなら、どんな要求でも呑む」
女性看守は憐れむような目で彼を見た。
「桐生さん、もう現実を受け入れてください」
「あいつが戻ってきてくれるだけでいい」
博之の声には、絶望的な懇願が滲んでいた。
「どんな条件でも、俺は受け入れる」
女性看守はため息をついた。
「死人は条件など出しませんよ、桐生さん」
博之は雷に打たれたように、椅子に崩れ落ちた。
詩音の魂魄は彼の苦悶の表情を見て、胸中に複雑な思いが渦巻いた。
かつて傲慢だった金融界の帝王が、今や一人の死んだ女のために苦しんでいる。
しかし、その苦しみはあまりにも遅すぎた。
彼女が生きていたとき、彼は彼女に報復していた。彼女が死んで、ようやく彼は後悔し始めたのだ。
「博之、あなたはついに真実と向き合うのね」
詩音は、彼に聞こえないと知りながらもそっと囁いた。
「でも、私はもう二度と戻らない」
「彼女は何度もあなたとの離婚を要求していましたが、あなたはすべて拒否しました」
女性看守は静かにため息をつく。
「あなたはかつて言ったそうですね。桐生家に離婚はない、死別だけだと」
博之の顔から、さっと血の気が引いた。
確かにその言葉を口にした。ある口論の最中、詩音が離婚を切り出したとき、彼は怒りに任せてこう言ったのだ。
「離婚したいだと? お前が死んだら考えてやる! 桐生家に離婚はない、死別だけだ!」
あの時の彼は、ただ彼女に報復し、彼女を苦しめたいだけで、まさか彼女が本当に死ぬなどとは……。
「彼女に会わせてくれ」
博之は立ち上がり、声を震わせた。
女性看守は記録室へと向かい、しばらくして簡素な骨壺を抱えて戻ってきた。
「これが、如月詩音さんのご遺骨です」
博之の目は、その小さな箱に釘付けになった。
「ありえない……そんなはずは……」
彼は喃々と呟く。
「俺の許しもなく、あいつが死ねるわけがない」
そこへ所長が入ってきて、厳粛な口調で言った。
「桐生さん、ここには監視カメラの映像、死亡診断書、そして医師の救命記録があります。如月さんは、確かに二ヶ月前にお亡くなりになりました」
博之の世界は、完全に崩壊した。
