第3章

黒川瑞樹は書類を受け取ると、ざっと数ページをめくった。

傍らに立つ晩香は、白皙の指を微かに震わせながら、一本の万年筆を差し出した。

不意に彼が顔を上げ、その鋭い眼差しが刃のように晩香を突き刺す。彼の声は低く冷ややかで、一言一言が寒気を纏っているかのようだった。

「黒川家の財産は、もういらないと?」

晩香の顔色は青ざめていたが、その瞳は常ならぬほど固く、彼女は首を横に振った。まるで天気の話でもするかのような平坦な口調で答える。

「私が欲しいのは、この家だけです」

この家だけが、彼女にとって唯一の思い出の場所だった。庭には、花ちゃんがよちよち歩きしていた姿が。リビングの絨毯の上には、家族三人で戯れた温かい時間が。キッチンには、瑞樹のために朝食を用意した時の喜びが。五年間の結婚生活、その隅々に至るまで、断ち切り難い痕跡が刻み込まれている。

松野優は静かに瑞樹の背後に立ち、契約書の内容に鋭い視線を走らせると、その口元にほとんど見えないほどの笑みを浮かべた。

「ふん」

瑞樹の冷笑が、彼女の物思いを断ち切った。

「随分と都合のいい場所を選んだものだな」

彼は微塵も信じていなかった。

六年前、黒川グループは破産し、彼の両親は交通事故で亡くなった。そして彼自身は脊髄癌で入院していた。その時、この女は彼の三億円を持って忽然と姿を消したのだ。一年後、彼女は子供を連れて戻ってくると、彼の病状を利用し、無理やり結婚を迫った。

瑞樹は素早く契約書に署名すると、書類を晩香に投げつけた。その声には、骨の髄まで達するほどの憎しみが込められていた。

「今すぐ、その得体の知れないガキを連れて俺の前から消えろ」

「花ちゃんはよその子じゃありません!」怒りで晩香の声が震えた。

瑞樹は冷ややかに彼女を見つめる。

「昨日の写真が全てを証明している。お前とあの藤堂とかいう医者、とっくにデキてたんだろう?今度は腹の中の新しいガキを俺に受け入れさせようとして、それが無理だから一歩引いたってわけか?」

晩香は口を開きかけたが、これまでの長年にわたる瑞樹の花ちゃんへの態度を思い出した。まるで全身の力が抜き取られたかのように、彼女の肩がわずかに落ちる。そして、寂しげに微笑んだ。

「ええ、あなたの言う通りです。あの子のこれからの父親は、藤堂先生ですから……」

六年の結婚生活は、この瞬間、ついに終わりを告げた。

「出て行け!」

瑞樹が突然立ち上がり、その瞳に怒りの炎を燃やした。

その言葉が終わるや否や、瑞樹は激しく咳き込み始めた。晩香は一歩前に出て彼を支えようとしたが、松野優が一足先に瑞樹を支え、優しく彼を慰めていた。

差し伸べた手は、気まずく宙で止まる。彼女はその手を握りしめ、必死に涙を堪えながら、ゆっくりと背を向けた。

その時、彼女のスマートフォンが突然鳴った。画面には「母」の二文字が点滅している。

晩香の指が、通話ボタンの上で一瞬ためらった。

母がもたらしたのは、不幸の知らせだった。

晩香が慌てて病院に駆けつけると、花ちゃんが放課後、突然倒れたことを知らされた。医者の話では、適合する心臓が見つからなければ、花ちゃんはこの冬を越せないという。

晩香は目の前がぐらりと揺れるのを感じ、病院の壁に手をついた。力を込めたせいで、白皙の指先がさらに白くなる。離婚協議を終えたばかりの疲労に、体内の悪性腫瘍の蝕みが加わり、彼女は立っていることさえままならなかった。

振り返った瞬間、視界が暗転し、体ごと前へ倒れ込む。

一対の力強い腕が、彼女をしっかりと受け止めた。慣れ親しんだ消毒液の匂いに、微かなオーデコロンの香りが混じる。藤堂真一だった。

「顔色が悪いぞ」

藤堂真一は眉をひそめ、彼女を半ば抱えるようにして近くの医局休憩室へと運んだ。

「また薬を時間通りに飲んでいないのか?」

晩香は首を振り、目に涙を浮かべた。

「花ちゃんが……心臓病が再発したんです」

藤堂真一の表情が険しくなる。

「すぐに心臓外科の同僚に連絡する」

休憩室のドアが不意に開かれ、鈴木蘭が慌てた様子で入ってきた。晩香の姿を見ると、ほっと息をつく。

「やっと見つけた!花ちゃんがずっとあなたのこと呼んでるわよ」

晩香はもがくように立ち上がり、よろめきながらドアへ向かおうとしたが、藤堂真一に椅子へと押し戻された。

「車椅子を準備してくる」

彼が去った後、鈴木蘭は目を細めて尋ねた。

「黒川瑞樹はこのことを知ってるの?」

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