第4章

 メダイが手から滑り落ちた。

 なるほど。母が私に見せた優しさは、すべてイザベラのためだったのだ。

 この血に感謝すべきなのかもしれない。イザベラがいつでも使える「血液バンク」を確保するためでなければ、彼らはあの薄暗い物置部屋すら私に与えてはくれなかっただろう。

「そんな我儘を言うんじゃない。お前は姉だし、妹よりも体が丈夫だろう。寝る場所なんてどこだっていいじゃないか。こんな些細なことでいちいち文句をつけて、皆を困らせるつもりか」

「そうよ、妹に譲ることを覚えなさい……」

 私は身をかがめ、そのメダイを拾い上げて手の中に握りしめた。

「元からイザベラと張り合うつもりなんてないわ。あの子があの部屋を気に入っているなら、好きに使わせてあげて」

 夕食後、私は薬をひと掴み飲み込み、泥のように眠りに落ちた。

 真夜中、胸の奥に鋭い痛みが走った。まるで心臓をナイフでえぐられたかのように、私はびっしょりと冷や汗をかいて跳ね起きた。

 喉が渇いた。水が欲しい。

 物置部屋のドアを押し開けると、上の階にあるイザベラの部屋から物音が聞こえてきた。

 階段を上っていくと、イザベラの泣き声が耳に届いた。

「今夜は一緒にいて! あんな暗くて狭い物置部屋に人が住めるわけないじゃない。あの女、もう子供も産めないただの役立たずなのに、どうしてまだお芝居に付き合ってるの?」

 ドアは少しだけ開いており、隙間からオレンジ色の薄明かりが漏れ出ている。

「イザベラ、いい子だから」

 マルコの声だ。

「わかってるだろう、俺が一生愛するのは君だけだ。俺だって、ずっと君を抱きしめて眠りたい。でも、お姉さんの機嫌を取っておかないと、もし君の体に拒絶反応が出たらどうするんだ? お義父さんもはっきり言っていただろ、君は一生彼女の血なしでは生きられないって。だから、俺は彼女をなだめ、愛しているフリだってしなきゃならない。幸せだと思わせておけば、万が一君に何かあったとき、彼女は喜んで命を懸けてくれるんだから」

「じゃあ、毎日あの女の顔を見ながら、心の中では誰を想ってるの?」

「馬鹿だな、君に決まってるだろ」

 マルコは低く笑い声を漏らした。その声には、吐き気を催すほどの情欲が滲み出ている。

「一分一秒、彼女にキスをしている時でさえ、俺が想っているのは君だけだよ」

「マルコ……」

 イザベラの声が、甘ったるく傲慢な響きを帯びる。

 彼女に応えたのは、ドンと強く押し倒すような音、そして重い物が柔らかいベッドに沈み込む鈍い音だった。

 本来なら私のものだったはずの夫婦のベッドで、二人がどうやって絡み合っているのかは、見なくても容易に想像がついた。

 私はきびすを返し、一歩、また一歩と物置部屋へ歩みを戻した。

 背後でドアを閉ざす。

 明かりはつけなかった。壁に寄りかかり、ずるずると床にへたり込む。

 上の階からの声は途切れ途切れに、夜通し鳴り止むことはなかった。

 夜が明けようとする頃、ドアが押し開かれた。

 入り口に立つマルコは、床に座り込む私を見て、その瞳に一瞬だけ動揺を走らせた。

「エレナ? 君……どうして床なんかに座ってるんだ? よく眠れなかったのか?」

「今、起きたところ」

 彼はあからさまに安堵の息を吐き、こちらへ歩み寄ると、癖のように私の額に手を当てて熱を測ろうとした。

「顔色がすごく悪いよ。どこか具合でも悪いのか? 誰か呼んで——」

「いらない」

 私は顔を背けて彼の手を避けた。胃の奥で込み上げる堪え難い吐き気を押さえつけながら言葉を紡ぐ。

「ただ、少し一人にしてほしいの」

 彼は私を見つめ、何か言いたげに口ごもったが、それでも心配そうな素振りを崩さなかった。

「それもいい。そうそう、今日はイザベラの気分がいいみたいでね、退院祝いに買い物に行きたがってるんだ。義父さんたちも気晴らしに連れて行きたいみたいだけど、君も一緒に来ないか? みんな君を待ってるよ」

 お祝い?

 こんな時に、私という「血液バンク」が隣で倒れてしまっては、確かに水を差すことになるだろう。

「私は遠慮しておくわ」

 伏し目がちにそう告げる。これ以上、彼らと一分たりとも芝居を続ける気力すら湧かなかった。

「楽しんできて」

「そ、そうか。じゃあ家でゆっくり休んでて。具合が悪くなったら、いつでも電話しておいで」

 マルコはそれ以上引き止めようとはせず、その声には微かな、けれど確かな弾みが混じっていた。

 ドアが閉まる。

 足音が軽やかに遠ざかっていく。

 十分後、窓の外からエンジンをかける音が聞こえてきた。イザベラの鈴を転がすような笑い声、母の優しく労わる言葉、父の豪快な笑い声、そして、甘く優しいマルコの相槌。

 車輪が砂利を軋ませる音が次第に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。

 私の世界は、ようやく静寂を取り戻した。残されたのは、私一人だけ。

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