第2章
心臓の鼓動が早まるのを感じながらも、私はできるだけ平静な声を保った。
「営業の電話よ」
純一はしばらく私をじっと見つめていたが、やがてふっと笑みをこぼした。
「お前は本当に人がいいな。営業の電話にまで付き合ってやるなんて」
彼はサイドテーブルにトレイを置いた。
「これを飲んで。少し休んだ方がいい」
五年。この「サプリメント」とやらを、私はもう数え切れないほど飲まされてきた。
以前の私は、それが彼の愛情なのだとばかり思っていた。
だが今ならわかる——これは忌々しい鎮静剤だ。私を昏睡させ、意識を失っている隙に血を抜き取るための。
私はグラスを手に取ると、彼の目を盗んで中身を枕の裏へと流し捨てた。
リップクリームでわずかに唇を潤し、すべて飲み干したように装って背を向ける。
目を閉じ、呼吸を整える。薬が効いてきたように見せかけ、体の力を抜いて枕に身を沈めた。
純一はしばらくベッドの傍らに腰を下ろしていた。私が「眠った」ことを確認すると、立ち上がってドアの方へと向かう。
ドアが開いた。だが、入ってきたのは看護師ではない。
怜奈だ。
甘えるような、媚びを含んだ声が響く。
「純一、また具合が悪くなってきたの。肌はたるむし、髪の毛も抜け始めて……来週には大事なファッションショーがあるのに。絶対に万全の状態で出たいの」
「心配いらない。俺がついている」
純一が私の袖をまくり上げる。腕の内側にアルコール綿が押し当てられ、ヒヤリとした冷たさが走った。
鋭い針先が、静脈を突き破る。
自分の体から、生温かい血が吸い出されていくのを感じた。
怜奈が満足げに笑い声を上げる。
「純一は本当に優しいのね。この『黄金の血液タンク』——他の誰もが欲しがるはずよ。あの女、まだあなたのこと本気で愛してるって信じ込んでるんだから。純一ったら、お芝居が上手ね」
純一も声を立てて笑う。
「こういう女が一番騙しやすいんだよ」
その一言一言が鋭い刃となって、私の心臓を何度も、何度も抉り取っていく。
やがて、ドアが閉まる音がした。
目を開けると、堪えきれなくなった涙が堰を切ったように溢れ出した。
腕の注射痕からは、まだ血が滲み出ている。
その小さな傷口を見つめているうち、不意に笑いが込み上げてきた。
泣きながら、笑っていた。
咲良、あなたって本当に救いようのない馬鹿ね。
翌朝、私は鉛のように重い体を引きずってベッドから抜け出し、あらかじめ用意しておいた離婚届をバッグに忍ばせた。
最小限の荷物をまとめ、タクシーを拾って、かつて自分の家だと信じて疑わなかったあの場所へと向かう。
ドアを開ける前から、中から微かな物音が漏れ聞こえてきた。
女の嬌声、男のくぐもった吐息、そして何かがテーブルにぶつかる音。
私はドアを押し開けた。
ダイニングテーブルの上に怜奈を押し倒している純一。二人とも、見るに堪えないほど服を乱している。
怜奈の黒いキャミソールワンピースは腰のあたりまで捲り上げられ、純一のシャツはボタンがすべて外されていた。
朝食の皿は床に払い落とされ、フルーツジュースがそこら中にぶちまけられている。
二人はあまりにも夢中で、私の存在に気付く素振りすらない。
「純一……」
怜奈の声は、とろけるような悦楽に満ちていた。
「あなた、最高よ……」
純一が彼女のうなじに唇を落とす。
「お前だけのためにね」
立ちすくむ私を見たメイドたちは、一瞬だけ慌てたような顔をしたものの、すぐに落ち着きを取り戻し、その目には明らかな嘲笑と哀れみが浮かんでいた。
その瞬間、すべてを悟った。
この家の人たちは、全員知っていたのだ。
誰もが知っていた。
何も知らずにのんきに暮らしていたのは、私という滑稽なピエロだけだった。
私は身を翻し、庭へと駆け出した。
胃の奥から込み上げる吐き気に耐えきれず、噴水の縁にすがりついて激しくえずく。
だが、何も出なかった。
口の中に広がるのは、胆汁のひどく苦い味だけだ。
「あら? 見てはいけないものでも見ちゃったかしら?」
背後から、怜奈の嘲るような声が響く。
私は振り返った。
「咲良、いい加減現実を見なさいよ。この五年間、自分がこの家の奥様だとでも思い上がっていたの?」
彼女は私の目の前で立ち止まり、見下ろすように鼻で笑った。
「大間違いよ。あなたはただの器に過ぎない。その貴重な血を蓄えておくための、卑しい入れ物よ」
彼女が腕を差し出す。その肌は陶器のように滑らかだった。
「見てよ、これ。全部あなたのおかげね。あなたの血は、あなたの血管を流れている時よりも、私の血管を流れている時の方がずっと価値があるのよ」
私はふいに笑い声を上げた。
「知ってる、怜奈? Rhマイナスの血は確かに貴重だけど、頻繁な異種輸血は深刻な免疫拒絶反応を引き起こすのよ」
私は一歩、歩み寄った。
「あなたがやっていることは、緩やかな自殺と同じだわ」
「このくそ女!」
激高した怜奈が手を振り上げ、私の頬を思い切り張り飛ばした。
顔が横に弾かれ、切れた唇から血が滴り落ちる。
だが、私は怯まなかった。
体勢を立て直すや否や、力任せに彼女の頬を平手打ちした。
乾いた破裂音が、静かな庭に響き渡る。
怜奈は呆然と立ち尽くしていた。まさか反撃されるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「あんた——」
金切り声を上げて飛びかかってきた彼女は、私を背後の噴水に向かって力いっぱい突き飛ばした。
バランスを崩した私は、大理石の縁に頭を強く打ち付けた。
私の額からとめどなく流れ出す血を見て、怜奈の目に一瞬、勝利の光が宿る。
しかし次の瞬間、彼女の表情は一変した。
瞬時に大粒の涙をこぼし、全身を震わせながら、恐怖に怯えたような悲鳴を上げたのだ。
「純一! 助けて! 彼女……すごく血を流してて……私……もう見てられない……」
彼女は胸をかきむしり、わざとらしく後ろによろめいて、今にも卒倒しそうな演技を打つ。
中から純一が血相を変えて飛び出してきた。
彼は血まみれになった私の顔を一瞥し、それから無傷の怜奈を見た。
そして躊躇なく怜奈を抱き寄せた。
彼は猛然と振り返り、冷酷な怒りに満ちた目で私を睨みつけた。
「咲良! 一体何の真似だ! 怜奈がどれほど繊細か知っているだろう! わざと血まみれになって、彼女をショック死させる気か!」
私は必死に弁解しようとした。
「純一、違うわ! 彼女が私を突き飛ばしたのよ!」
「嘘をつくな!」
純一の怒号が飛ぶ。
「怜奈のように弱い体の女が、お前を突き飛ばせるわけがないだろう! 自分で勝手に転んだくせに、彼女に罪をなすりつける気か!」
怒りのあまり全身の血が沸騰し、視界が赤く染まる。私は声を振り絞って問い詰めた。
「私が弱い女じゃないって言うの!? 彼女を助けるために、私の血を盗み続けてきたくせに!」
彼はようやく私とまともに視線を合わせたが、その目はどこまでも冷ややかだった。
「たかが少し血を抜かれたくらいで、死にはしない。咲良、お前は本当に自己中心的な女だな。怜奈は生きるためにその血が必要なんだ!」
純一は怜奈を抱き上げ、振り返ることもなく去っていった。
私は一人、血だまりの中に座り込んでいた。
よろめきながら立ち上がり、足を引きずって街の薬局へと入る。
私の姿を見た店員が、ハッと息を呑んだ。
「なんてこと! お客さん、救急車を呼びます!」
「いりません」
私はヨードチンキと縫合針、ガーゼを掴み取った。
「これ、いくらですか?」
店員が震える声で告げた代金を支払い、足早に奥へと向かう。
薬局のトイレを借りて鏡の前に立ち、ヨードチンキで傷口を洗い流す。
気を失いそうなほどの激痛に耐えながら、どうにか最後の一針まで縫い終えた。
傷口にガーゼを当て、トイレを出る。
薬局に置かれたテレビから、ニュースの音声が流れていた。
「……著名な血液学者である佐野純一博士は本日、希少血液型の研究基金を設立するため、五億円の寄付を行うと発表しました。この基金は新井怜奈氏の名が冠され、Rhマイナスなどの希少血液型の医学研究を支援するために使われるとのことです……」
画面の中では、純一がカメラに向かって誇らしげに微笑み、その隣には優雅なドレスに身を包んだ怜奈が寄り添っている。
店員がため息混じりに呟いた。
「佐野さんみたいな人と結婚できるなんて——新井さんって本当に幸せ者よね」
彼女は知る由もない。目の前に立つ、ボロボロの服を着た血まみれの女こそが、純一の本当の妻であることなど。
私はスマートフォンを取り出し、短いメッセージを送信した。
「高橋刑事、血液の違法売買に関する確実な証拠を手に入れました……」
