第2章

 声のした方へ視線を向ける。

 ソファには、二人の先客が腰を下ろしていた。

 男は仕立てのいい黒のスーツに身を包み、足を組んだまま、手の中で拳銃を弄んでいる。彫りの深い顔立ちに、冷酷な光を宿す双眸。ただそこに座っているだけで、他者を寄せ付けない圧倒的な威圧感を放っている。

 マーカス・ケイン——冷酷無比と恐れられる、マフィアのボス。

 そして、私の未来の夫となる男だ。

 彼の隣には女が座っている。白いワンピースに身を包み、豊かな長い髪を揺らしながら、ハンカチでそっと目元を押さえていた。だが、その瞳の奥に潜む敵意と挑発の色は、いっそ顔に書いてあると言った方が早いほどだ。

 セリーナ・ブレイク。前世で姉のグレースを死に追いやった張本人。

 私は鼻で笑った。

「あんた、今なんて言った? よく聞こえなかったんだけど。もう一度言ってみなさいよ」

 セリーナは一瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐにいかにも庇護欲をそそる弱々しい声を上げた。

「私はただ……その、ケイン家の未来の奥様になる方なら、もう少し身だしなみに気を配るべきではないかと……」

「あんたと私、そんなに親しい仲だった?」

 私は彼女の言葉をすかさず遮る。

「私の躾がどうだろうと、あんたには関係ないでしょ」

 空気が一瞬にして凍りついた。

 私は構わず、二人の前へと真っ直ぐ歩み寄る。

「私の名前はライリー・スターリング。スターリング家の次女よ」

 マーカス・ケインの目を真っ向から見据え、言い放った。

「今日から、あんたの婚約者はこの私に変更された。何か文句ある?」

 男は拳銃を弄ぶ手を止め、ゆっくりと視線を上げた。深い闇のような瞳の底は、まったく窺い知れない。

「ここは俺の屋敷だ」

 地を這うような低い声。それだけで空気が重くなるような、生まれ持った凄みがある。

「そんなこと、百も承知よ」

 私は一歩も引かずに睨み返した。

「でも、私がここに足を踏み入れた以上、この半分は私のものだから」

「私の態度が気に入らないなら、今すぐここから追い出せばいい。でも一つ忠告しておくわ。スターリング家はケイン家には及ばないけれど、誰にでも好き勝手にされるほど落ちぶれてはいない。婚約者変更の件を受け入れるなら、これからは同じ船に乗る運命共同体。受け入れないなら、私は今すぐここを出ていく。未練なんて一切ないわ」

 言い終わるや否や、セリーナがたまらず横槍を入れてきた。

「ライリーさん、マーカスに向かってなんて口の利き方をするんですか!」

 あからさまな非難の籠もった声。

「マーカスは……」

「口を挟まないで」

 私はそちらへ顔を向けることすらしない。

「私が自分の婚約者と話しているのよ。部外者のあんたが口を出す筋合いなんてないわ。姉のグレースは優しくて誰にでも愛想が良かったけど、私まで同じだと思わないことね」

 そこで初めて彼女へと顔を向け、氷のように冷たい視線を射抜いた。

「自分の立場を、よく弁えることね」

 セリーナの顔から、さぁっと血の気が引いていく。

 マーカス・ケインは依然としてソファに身を沈めたまま、無言を貫いている。ただ、その深淵のような瞳で私をじっと観察していた。突如として現れたこの新しい婚約者が、果たしてどれほどの価値を持つ女なのか、底知れぬ目で値踏みするかのごとく。

 セリーナはぎゅっと唇を噛み締め、再び口を開いた。

「ライリーさん、誤解です。私はセリーナ・ブレイク。マーカスの幼馴染です。ただ、先ほどのあなたの物言いはあまりにも傲慢だと思っただけです。だって、物心ついてからこの方、マーカスにそんな態度をとる人間なんて一人もいませんでしたから……」

 言いながら、彼女はみるみる目元を赤く染めていく。

「本当に、あなたは恵まれていらっしゃるわ。いとも簡単にマーカスのそばにいられて、ご家族からの愛情もたっぷり受けて……。私なんて……幼い頃に両親を亡くしてしまったから。あなたから見れば確かに私は部外者でしょうけれど、私にとってマーカスは、たった一人の身内のようなものなんです」

 そう語りながら、彼女は上目遣いでマーカスを見つめる。その瞳は、庇護を求める期待でいっぱいに満ちていた。

 マーカスの眉が微かにひそめられ、その端正な顔立ちに、ほんの一瞬だが、かすかな罪悪感がよぎるのを見逃さなかった。

 ——ふん。

 前世でも、まったく同じだった。グレースは優しすぎたのだ。善良すぎたせいで、こんなあざとい言葉を前にしても、ただ黙って耐え忍ぶことしかできなかった。こういう女の前に立ちはだかり、明確な線を引く術を知らなかったのだ。「あなたの抱く罪悪感や同情は、妻を苦しめる理由にはならない」と、マーカスに突きつけることもできなかった。

 けれど、私はグレースじゃない。

 機嫌が良ければ、大抵のことは大目に見る。だが、私を不快にさせたなら——その苦痛は、全員にきっちり味わわせてやる。

 セリーナはなおも言葉を紡ぎながら、あろうことか手を伸ばし、マーカスの腕にすがりつこうとした。

 私の目が鋭く細められる。彼女の指先が彼に触れるより早く、その手首をガシッと掴み、容赦なく捻り上げた。

「きゃああっ!」

 悲鳴を上げ、セリーナの身体が無理やりくの字に折り曲げられる。

「警告したはずよ」

 苦痛に歪む彼女の顔を見下ろし、私は冷たい声で言い放つ。

「口を挟むなと。私を誰だと思ってるの? あんたのその見え透いた三文芝居に、黙って付き合うとでも?」

 マーカスが立ち上がった。その目は一瞬にして凍りつき、私を制止しようと手を伸ばしてくる。

 彼の手が私の肩に触れようとした、まさにその刹那。私はセリーナを突き飛ばすように手放し、返す刀で彼の手首を掴むと、一気に腰を落として力を込めた。

 流れるような、完璧な一本背負い。

 ドォン! という重低音とともに、あの天上天下唯我独尊なマフィアのボス、マーカス・ケインが、見事なまでに床板へと叩きつけられた。

 世界から、あらゆる音が消え去ったようだった。

 マーカスは床に仰向けになったまま、何が起きたのか理解できていない様子だ。セリーナに至っては、目を見開き、口をぽっかりと開けて硬直している。

 私はパンパンと両手の埃を払うと、そのままマーカスの引き締まった腹を跨ぐようにして腰を下ろした。

「お前……ッ」

 彼が口を開く。背中を打ち付けられたせいで、その声には微かな喘ぎが混じっていた。

 だが、私は彼に言葉を紡ぐ隙など与えない。

 大きく息を吸い込み、そのまま身を屈めて、彼の唇を塞いだ。

 薄い唇からは、葉巻のほのかな香りがした。彼の屈強な身体が一瞬にして強張るのが伝わってくるが、私は決して唇を離さない。激しく、そして容赦のない、圧倒的な支配欲に満ちた口づけ。

 数秒後、ゆっくりと顔を上げ、完全に意識が飛んでいるセリーナへと視線を向けた。

「よく覚えておきなさい」

 私はわざとゆっくりと、一語一語を噛み締めるように告げる。

「この男は、私の婚約者よ。今後二度と図々しい真似をしたら——ただ痛い思いをするだけじゃ済まないからね」

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