第3章

 言い放った直後、体の下で動く気配を感じた。私はゆっくりと立ち上がり、手についてもいない埃を払ってみせた。

 マーカスも立ち上がると、口元に拳を当てて軽く二度咳払いをする。彼の耳がわずかに赤らんでいることなど、私は気づきもしなかった。

 セリーナがすかさず駆け寄ってくる。

「マーカス、大丈夫!? ライリーったら、本当にひどすぎるわ! こんな女、あなたにはふさわしく……」

「いい加減にしろ」

 マーカスが冷たく遮った。

 彼は乱れたスーツの襟元を整え、私を一瞥してからセリーナに向き直る。

「両家で決まったことだ。結婚相手が変わったくらい、大した問題ではない。この縁談、俺は受け入れる」

 私は片眉を上げた。てっきり不機嫌な顔をされるか、ここから追い出されるものとばかり思っていた。

 まさか、こんなにあっさりと妥協するなんて。

「テンプレみたいな俺様社長のセリフはご免よ」

 私は腕を組んだ。

「受け入れるっていうなら、ルールを決めさせてもらうわ。一つ、私に指図しないこと。二つ、周りの女どもの管理はしっかりして、私にまとわりつかせないこと。じゃないと、目につくたびにぶっ飛ばすわよ」

 マーカスは数秒間私をじっと見つめ、初めて微かに笑みをこぼした。

「わかった。お前の好きにしろ」

 私は一瞬呆気にとられた。そんなに素直に?

 セリーナの顔が蒼白になった。

「マーカス、そんなに簡単に承諾するの!? 私たちの約束はどうなるのよ! 忘れたの!?」

 マーカスは彼女に視線を向ける。

「これからライリーは俺の妻になる。結婚式は早急に挙げる予定だ。その時はお前も出席しろ。それから、これからは彼女がお前の義姉になる。敬意を払え」

 セリーナの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「ひどすぎるわ!」

 そう言い捨てて、彼女は走り去っていった。

 私は鼻で笑った。

 マーカスは私の方を見て言った。

「まずは結婚式の準備だ。詳しいことは後で説明する」

 数日後に行われた結婚式は、ごく内輪だけの質素なものだった。

 安全面を考慮し、参列したのはファミリーの幹部数名と、信頼の置ける部下たちのみ。華やかな装花もなければシャンパンタワーもなく、司会者すら用意されていない。

 ただ指輪を交換し、結婚証明書にサインをして、儀式の完了が宣言されただけ。

 時間にしてわずか十分足らずの出来事だった。

 セリーナも来ていた。彼女はフロアの隅に立ち、目を真っ赤に腫らしながら、不満をありありと浮かべた瞳で私を睨みつけている。

 その視線がひどく癪に障る。

 だが今日に限っては大人しく、騒ぎ立てるような真似はしなかった。おそらく、マーカスに言われた「義姉」という言葉がよほどこたえたのだろう。

 しかし、それがかえって私の警戒心を煽った。吠えない犬ほど危険なものはない。本当に噛みついてくる奴は、何も言わずにいきなり飛びかかってくるものだ。

 儀式が終わると、マーカスは私の手を握り、ホールを後にした。

 彼の手は大きく、掌には薄いタコがあり、私の手を力強く握りしめていた。

 私は振り払わなかった。

 彼と結婚すると決めた以上、体面を保つための振る舞いは必要だ。それに、この程度の些細なことでいちいち突っかかるのも面倒だった。

 寝室に入ると、マーカスは真っ直ぐバスルームへと向かった。

 私はベッドの縁に腰を下ろし、ぼんやりと考え込んだ。

 さて、これからどうするべきか。

 本当に……アレをするのだろうか?

 もとよりウジウジ悩む性分ではないが、流石に初めてのこととなると、多少の不安は拭えない。

 落ち着け。これはただの契約結婚だ。大騒ぎするようなことじゃない。

 十分後、バスルームのドアが開いた。

 マーカスは腰にバスタオルを一枚巻いただけの姿で出てきた。露わになった上半身の胸元や腕には、刃物か銃弾によるものと思しき、うっすらとした傷跡がいくつか残っている。

 認めよう。その光景は、確かに視覚的なインパクトが強かった。

 彼はベッドのそばまで歩いてきて腰を下ろすと、私を抱き寄せようと手を伸ばしてきた。

「待って」

 私は彼の手を制止した。

「その前に、少し話があるんだけど」

 マーカスは片眉を上げた。

「言ってみろ」

 私は一つ深呼吸をして、彼の目を真っ直ぐに見据えた。

「包み隠さず言わせてもらうわ。私があなたと結婚したのは、姉を守るため。あなたが私を妻にしたのは、ファミリーの未来のため。お互いの利害が一致しただけよ。私の自由に干渉しない限り、妻としての本分は果たすと約束する。でも、もし他の女に私をコケにさせるつもりなら、今のうちに諦めることだ」

 マーカスはしばらく沈黙した後、口を開いた。

「俺は簡単に人を信用するような人間じゃないし、気の利いた台詞を吐くのも得意じゃない。だが、行動で示すことはできる。お前を妻に迎えた以上、最後まで責任を持つつもりだ。お前にも、俺の信頼を裏切らないでほしいと思っている」

 その言葉は、それなりに筋が通っているように聞こえた。

「だったら教えて。セリーナとあなたって、結局どういう関係なわけ?」

 マーカスは小さく息を吐いた。

「彼女の両親は、ファミリーの中核を担うメンバーだった。十年前、敵対組織に襲撃された際、セリーナの両親は俺や俺の両親を逃がすため、しんがりとして残ってくれた。そして、全滅した。俺の両親も、その後の追撃で命を落とした」

「だから俺は、彼女に対してずっと借りがあると感じていた。この数年、できる限り彼女の面倒を見てきたつもりだ」

「じゃあ、二人は……」

「だが、俺は彼女を妹としてしか見ていない」

 マーカスは即座に私の言葉を遮った。

「それに、俺たちはもう結婚した。お前を不安にさせないためにも、これからは彼女と距離を置くつもりだ。それでいいか?」

 彼の瞳は真摯で、嘘をついているようには見えなかった。

「まぁ、それならいいわ」

 私はホッと胸を撫で下ろした。

「最初からそうやって、はっきり言ってくれればよかったのに」

 ふたたび沈黙が降りた。

 マーカスが今度は私の腰に腕を回してきたが、私は抵抗しなかった。

 そして、彼から口づけを落とされる。

 ひどく軽くて、優しいキス。彼が纏っている冷酷な印象からは想像もつかないほどだった。

 私はそっと目を閉じ、彼に押し倒されるがままに身を委ねた。衣服がゆっくりと剥ぎ取られるにつれ、互いの呼吸が次第に荒くなっていく。

 熱を帯びた空気が頂点に達しようとした時、彼はふと動きを止め、少し掠れた声で囁いた。

「いいのか?」

 私は小さく息を乱しながら、軽く彼を睨みつけた。

「……聞かなくてもわかるでしょ」

 マーカスは低く笑い声を漏らすと、再び身を乗り出して唇を重ねてきた。

「なら、同意したと受け取ろう」

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