第3章

 主治医が駆けつけ、その程度の『傷』を一目見るなり、一瞬だけ呆気にとられたような顔をした。だが彼は何も言わず、ただ淡々と軟膏を塗り、二、三の注意を与えただけだった。

 処置の間、濱野和久は片時も離さずリリを抱きしめ続け、私は部屋の隅でただそれを眺めていた。

 医者が去ると、濱野和久はようやくリリを離し、私の方を向いた。「優希、すまない。さっきは気が動転してて……」

 私は一歩後ずさり、差し出された彼の手を避ける。

「……平気よ」

 彼が眉を寄せ、何か言いかけたその時――リリが小さく咳き込んだ。彼の意識は、瞬時に彼女へと引き戻される。

「どうした? どこか痛むのか?」

 私はきびすを返し、リビングを出て裏庭へと向かった。

 彼は、追いかけてこなかった。

 私がいなくなったことで、中の笑い声はむしろ大きくなったようだ。

「リリさんは本当に優しくて愛らしいお嬢さんね。和久さんも幸せ者だこと」

「ええ、まったく。さっきの様子を見てごらんなさい、健気で守ってあげたくなるわ」

 濱野奥様の声が、やけに鮮明に聞こえてくる。

「リリさん、あなたこそがこの家に相応しいわ。これからはここがあなたの家よ」

 リリの声には、これ以上ないほどの感謝が滲んでいた。

「ありがとうございます、濱野奥様……私、和久さんを支えていきます」

 壁に背を預け、瞼を閉じて父の番号をタップした。

「……縁談相手は、どこの誰?」

 父は少し沈黙してから答えた。

「大阪の西坂家だ。三日後にこちらへ来る」

 あと三日。たったそれだけ。

「優希、もし嫌なら、私は……」父の声には複雑な感情が混じっていた。

「もういいの、お父さん」私はその言葉を遮った。

「私がいなくなれば、すべて丸く収まるわ」

 通話を切り、暗転したスマホの画面を見つめる。

 誰にとっても、それが最善。……私以外は。

 しばらくして、足音が近づいてきた。リリだ。顔には先ほどの『儚げな少女』を貼り付けたまま、その瞳だけが勝ち誇ったように輝いている。

「お姉ちゃん、こんなところで何してるの?」彼女は距離を詰めてくる。

「まだ怒ってる?」

 私が無視を決め込むと、彼女の笑みがスッと冷たいものに変わった。

「ねえ、見たでしょ? みんな、私の方が好きなのよ」

「お父様だって、とっくに私を本当の娘だと思ってる」彼女は耳元に顔を寄せ、声を潜めた。

「和久さんだってそう。あんなに深い絆があったはずなのに、私の作り上げた『嘘の恩』ひとつで、コロッと騙されちゃったじゃない?」

「あの時彼を助けたのが私じゃなくてお姉ちゃんだったとしても、それがどうしたの? 今さら彼に言ったところで、信じるわけないでしょ」

「お姉ちゃんはあの母親とそっくりね。自分の男ひとり繋ぎ止められないんだから!」

 過去の光景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 リリとその母親が父に連れられてきた日から、私たちの幸せは終わった。あの日、母は何も言わなかったけれど、笑顔を見せることも二度となかった。

 ある日、母は私の手を引いて川辺へと歩いた。

 そして、不意に私の手を放し――川へと身を投げた。

 手を伸ばしたけれど、指先は空を切るだけだった。私はただ、母が沈んでいくのを呆然と見送ることしかできなかった……。

 あれ以来、私には家がなくなった。

 私を見つけてくれたのは濱野和久だった。彼は私に上着をかけ、「怖がるな、これからは俺が守ってやる」と言ってくれた。

 それからずっと、彼だけが私の世界のすべてだった。

 なのに、彼さえも変わってしまった。


 私は瞳を閉じ、平坦な声で返した。

「それで? わざわざそんなことを言いに来たのは、自慢するため?」

「それとも……本当は焦ってるの?」

 彼女の笑顔が引きつった。

「焦る? 私が? 和久さんが愛しているのは私よ、焦る必要なんてないわ」

「じゃあ、どうして私に構うの?」

 彼女は鼻で笑うと、さらに身を乗り出し、囁くように言った。

「ねえ……私とお姉ちゃんが同時に水に落ちたら――彼はどっちを助けると思う?」

 言い終わるや否や、彼女は悲鳴を上げ、裏庭の池に向かって身を投げ出した。

 私は反射的に手を伸ばしたが、彼女はわざとそれを避け、水の中へと落ちていく。

「助けて!」水面を叩きながら、夜空を引き裂くような叫び声を上げた。

 濱野和久が飛び出してきた。池でもがくリリと、岸辺に立つ私。その二つを目にした瞬間、彼の瞳から温度が消え失せた。

「貴様、気が狂ったのか!?」

 怒号と共に、彼は私を乱暴に突き飛ばした。

 背中が壁に激突し、鈍い音が響く。

 濱野和久は躊躇なく水に飛び込み、リリを抱きかかえていた。ずぶ濡れになった彼女は、彼の腕の中で小刻みに震えている。

「お姉ちゃん……私が憎いのはわかるけど……こんなことしなくても……」

 濱野和久の表情は、恐ろしいほどに曇っていた。リリを抱きしめたまま、ゆっくりと私の方へ首を巡らせる。

 その眼差しにあるのは、冷徹、失望、そして嫌悪。

「正気か? 体の弱いあいつを突き落とすなんて、殺す気か!」

 背中の激痛に耐えながら、私はゆっくりと姿勢を正した。

「もし……」私の声は震えていた。

「推してないって言ったら、信じてくれる?」

 彼は冷たく鼻を鳴らした。

「推してないだと? じゃあ、あいつが自分で飛び込んだとでも言うつもりか?」

 彼を見つめ返し、私は不意に笑ってしまった。涙が滲むほどに、おかしくてたまらない。

 やっぱり。彼はいつだって、彼女のことしか信じないのだ。

「和久さん……」リリがか細い声で囁く。

「お姉ちゃんを責めないで……わざとじゃないの……」

「いや、今回ばかりは度が過ぎている」彼は氷のような声で告げた。

 彼は周囲に控えていた護衛たちに視線を向けた。

「頭を冷やさせてやれ。反省したら、話を聞いてやる」

 そう言い捨て、リリを抱いたまま背を向けた。

 護衛たちが詰め寄り、私の両腕を掴み上げると、池の方へと引きずり始めた。

「水は駄目! やめて!」私は必死に抵抗し、彼の背中に向かって叫んだ。

「お母さんがどうやって死んだか、知ってるでしょう!?」

 彼の足が一瞬止まった。だが、振り返ることはなかった。

 次の瞬間、私は冷たい水の中に放り込まれた。

 その刹那、目の前で溺れゆく母の姿がフラッシュバックした。

 私は死に物狂いで岸へ這い上がろうとした。

 しかし、その度に護衛の手によって水の中へと押し戻される。

 冷たい水が鼻腔、口、そして肺へと容赦なく流れ込んでくる。窒息感が喉を締め上げる。

 目を見開くと、水面の向こうにある空が、どんどん遠ざかっていくのが見えた。

 体が鉛のように重くなる。力が一滴ずつ抜け落ちていく。

 そうか、私はここで死ぬんだ。あのお母さんと同じように。

 なんて皮肉なのだろう。

 母と同じ運命を辿りたくなくて必死に抗ってきたのに、結局は同じ結末へ向かっているなんて。

 私は瞼を閉じた。体は深く、深く沈んでいく。

 濱野和久……あなたのために愚かな真似をするのは、これが最後よ。

 そして、暗闇がすべてを飲み込んだ。

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